2015年5月1日金曜日

立ち上るリラの香




ここ暫く髪を切りたいと思いながら、なかなか実現できないでいた。朝起きた時ぐらいしか、鏡で自分の顔を見ないことから、髪への関心は一日で一回。ところが、最近は髪が長くなったのでコートを着る時にも、髪の存在を知らされる。そろそろ切りたい。ばっさりと、肩のところまで。いや、もっとショートにしてもいいかもしれない。ただ、変な拘りがあって、鋏のみでカットして欲しいと思ったり、誰にでもお願いできないと思ったり。

以前、未だ末娘バッタがこの世に産まれていなかった頃、偶然入ったヘアサロンのお兄さんが、素晴らしい手をしていた。彼の手にかかると、髪の毛たちが嬉しがっていることが、本当に伝わってきた。当時楽しみにしていたテレビのシリーズの話になり、そのヒロインの髪型が好きだと言うと、きっと似合いますよ、と変身させてくれたことがある。あれは、単に好きな女優の話をしただけであったのに。まさか同じ髪型にしてくれるとは思わず、びっくり。しかも、その髪型が似合っていると、友人たちからも随分評判になった(と、思っているのは本人だけかもしれないが)。ところが、ある日突然、彼はお店を辞めてしまっていた。どこに行ったのか教えてもらえず、別の人が担当してくれた。

どこかで彼が天才的な鋏使いを披露しているのでは、と思っている。ひょっとしたら出会えるのでは、とも思っている。それが実現していないだけ。

どこにいるのかも知らない天才テクニシャンのことを思うより、とにかく、この髪をなんとかしよう。そう思い立つ。そもそも、長い髪をカットするだけなら、鋏しか使わないだろう。ふらっと入ってしまおう。

急ぎの仕事は頭がもっと明瞭な時でないとできない種類のもの。夜、家で熟慮して仕上げようと思い社を出る。ところが、閉店一時間前であるのに、会社近くのお店は、どこも受けてくれない。予約なしで行く方が悪いのか。そうだ、オペラ近辺ならあるだろう。携帯で探そうとして、ふとメールが入っていることに気がつく。ぱっと斜め読みをし、心が躍り出す。友人から。エキサイティングな新たな仕事のオファーが外国から来ており、恐らく受けることになると思う。ついては、ぜひ週末にランチかディナに招待したいが、都合はどうか。

慌てて21時閉店の店を調べる。二、三軒、見つかる。そうなると、すぐにでも走って行きたくなってしまう。掲載されている電話は有料番号。まだ閉店までに二時間もある。とにかく行ってしまおう。

小雨が大降りになっていた。メトロを使って、地図を見て、雨のパリを走り出す。その間にも、色々なことが頭を過ぎる。どう考えても、明日しか予定が明けられなかった。それなら、どうしても、この夜に髪を切らねば。

ものすごい使命に駆られた殉教者のように、思いは大きく、そして確固たるものになる。ところが、携帯で書かれていた住所に辿り着くと、何かの間違いのような小さな入口。ネーミングもロゴも格好良く、サロンの説明も気が利いていたし、21時まで開店していることからも、ちょっとした大き目のサロンを想像していただけに、日焼けした古い昔のポスターがドアに貼られている様子を見て、これは何かの間違いだろうと思ってしまう。一度は通り過ぎる。それでも、殉教者の思いは強い。もう一度引き返して、思い切ってドアを開ける。

お客さんは一人。忙しそうに鼻に幾つもピアスを施した女性がドライヤーを使っている。奥から暇を持て余していた様子の若い女性がやってくる。予約なしだが、今夜お願いできないか。そう言うと、大儀そうに台帳を見て、来週の木曜の朝なら予約を入れられるが、と返事。そこのソファーに座ることさえ想像できなかったこともあり、残念な思いと、ほっとする思いとを抱え、雨の降る外に出る。

それから一軒だけ開店中のヘアサロンを覗くが、断られる。そう、もう遅い時間。さあ、帰ろうか。気が付くと白亜のサクレクールが近い。どこまで歩ってきたのだろう。いや、正確には走ったのか。メトロがありそうな場所を探して、歩くが、一向に黄色い大きなMのサインは見えてこない。標識で北駅が近いことが分かる。そうか。あの素晴らしく立派な建物は北駅の正面玄関か。

以前ロンドンに行くために北駅に随分来たことが懐かしく思われる。ロンドン。一時間の時差。あそこなら、サロンは開いているに違いない。一瞬だけでもそう思った自分に苦笑。どうもがいても、ユーロスターでロンドンに行く間に、お店は閉まってしまうだろう。こんなバカなお客向けに、夜遅くまで開店しているヘアサロンを駅のステーションビルに構えれば、結構当たるのではあるまいか。労働者を優遇するフランスでは無理な話だろうか。

RERに乗りながら、返事を書く。先ずは素晴らしいニュースを祝福し、招待を謹んで受ける旨を述べ、明日が一番都合が良いと伝える。すぐに返事が返ってくる。「良かった!実は昨夜帰って来たばかりなので、未だ買い物にも行っていないんだ。明日のお昼にまた連絡する。レストランに行ってもいいしね。」

明日の昼に連絡をもらうということは、ランチの誘いになるのだろうか。そして、招待とは、彼の自宅だったのか。家族がバカンスで出払っていると書いてあったけど。

いやいや。ここはもう勝手な思い込みは止めよう。そう思う理性的な自分と、相変わらず想像力逞しく、我田引水型の自分とが拮抗。

雨は小降りとなり、リラの甘い香が立ち上っている。








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