「いいかい。親は何を言っているんだろうって思う時があるだろうけど、大人になってから、よくよく考えると、実は大抵は親の言う通りだったな、と思うもんなんだよ。」
ドングリの様な円らな眼を一層大きくして、ダヴィッドが末娘バッタに語る。
「その『大体』っていうのが曲者なのさ。『大体その通りだった』、つまりは『ちょっとは違っていた』、ってことは『やっぱり違っていた』ってことで、とどのつまりは『全く違っていた』ってことになるのさ。」
ダヴィッドが真剣であればある程、ちょっかいを出してからかう声が掛かる。40代であろうか。がっしりとした体躯と彫りの深い精悍な顔立ちながら物腰が柔らかく、フットワークが軽い彼を、恐らく孫のように信頼し、可愛がっているのであろう。と、その声が今度は末娘バッタに向かう。
「いいかい。そもそも誰それの意見だからって、それを真に受けちゃいけないんだよ。誰かが白だ、黒だ、と言ったからって、それは白でも黒でもないんだ。自分の目で見て心で判断するんだよ。そして、そもそも白、黒、なんてはっきりとした色合いなんてない。分かるかな。全ては虹色なんだよ。いいかい。これから多くの人や多くのものに出会う。沢山の虹色の出会いをするといい。君は『ブルックリン』のトレーナーを着ているけど、『ブルックリン』だからこうだ、ってものはないんだよ。」
しゃがれて低いが、良く通る声。話し出すと滑らかな小川のように言葉が紡ぎ出されていく。
「あの写真、知っているかな。」
所狭しと書物が重ねられ、恐らく本人のみしか分からない秩序で楽譜が散らばり、スーツケースが転がり、壁には手紙、写真、切り抜き、覚書などが貼られている。最初からドライフラワーとして花瓶に飾られているのか、或いは、自然とそうなったのか判明のつかない向日葵。何世紀も前からここにあったと思わせる品々の中に、違和感なく鎮座する巨大なコンピュータスクリーン。恐らく著名な画家から贈られたのであろう彼の自画像が無造作に床に置かれている。そうかと思えば、眼鏡の面長な男性の自画像が壁には掛かっている。人を迎えるための空間ではなく、持ち主が生きてきた空間。だからなのだろうか。とっても落ち着く。木製の素朴な椅子に腰を掛け、すっかり不思議な空間を味わっていた私に、今度は声が掛かる。
壁にはポスターが一枚。いや、拡大コピーか。確かグランプリを獲得したとの記事をどこかで目にしている。細長い木の下で、ヴァイオリニストが物思いに耽って音を紡いでいる写真。
「あの時、私は誰かが写真を撮ったなんてことは知らなかったよ。1980年から毎年行っている日本。どんなことがあっても、毎年行っていたのだから、もう、これは『愛』と言っていいかもしれない。その日本が大変なことになった。人類の歴史始まって以来の大災害と言ってもいいだろう。自然災害と人的災害の二つを被ってしまった。誰もが日本に行くことを取りやめた。でも私は逆だった。むしろ、大変なことになっているのだから、応援に行きたい、行かなければ、と、すぐに駆けつけた。この写真が撮られた場所には、日本でお世話してくれる人と二人で行ったのさ。どこに行けば良いか分からない中で、とにかく、ここに行こうと連れて行ってくれた。以前は7万本もの松の植林地であったとは後で知ったよ。そこには、一本の木があっただけ。私は、そこでヴァイオリンを弾いたよ。いつもヴァイオリンは持っているし、いつも弾いているからね。それだけのこと。その後、この写真のことを知ったよ。誰かが写真を撮っていたなんてことは全く知らなかったんだよ。」
音楽によって打ちひしがれていた心が癒された話になり、音楽が持つ力、魅力に皆が共感し、開け放たれた窓から、初夏のようなやわらかな風が吹き込む。「音楽によって、今日の私たちの出会いもあるのさ。」魂が抱かれた思いになる。
来月、新たに日本でのコンサートが予定されている。盛岡、そして宮古島。91歳。何かを待つのではない。自分が信ずるところに自分の足で向かう行動派。求められれば快く応じ、音楽を通して自分の思いを発信している。
「誰だか、分かるかな。」帰り際に末娘バッタに声が掛かる。
シンプルな、それでも一目で大切にしていると思われる、額に入った小さなモノクロ写真。
「あっ。ポテト、、、。えっと。」
「オイストラフ。。。」
「そう、彼だよ。ダヴィッドだ。仲良しだったよ。いいやつだった。」
そうして、ダヴィッドオイストラフとの、とっておきの思い出話をしてくれる。ラスパーユ大通りの彼のホテルに迎えに行った時、車を見て、ぜひ運転させてくれ、と言われ、見よう見まねで運転をするのかと思いつつも、快諾したところ、運転席に嬉しそうに乗り込み、あのふっくらとした頬をプルプルとさせ、ブルンブルンと唇でエンジン音を立て、運転の真似っこをしたとか。時々、サイレンまで鳴らして。
まだまだご一緒し、色々なお話を伺いたかったが、翌日も日帰りで国外にコンサートに出掛けるとか。夢見心地でアパートを出ると、外は小雨。興奮した頬には心地よい。と、記念にと末娘バッタとの写真を撮った携帯をアパートに忘れてきてしまったことに気が付く。慌てて戻るが、当然のことながらコードを知らず中には入れない。紹介してくれた方に電話をしようにも、電話番号を登録している携帯がない。ひょっとしたら、おとぎ話のように、明日訪れてもアパートの扉もなかった、なんてことになるのではないかと、焦ってしまう。
天は我に味方せり。アパートの住人が通りかかる。どうやらアパートを借りている旅行者のカップル。困っている我々を信頼してくれたのか、一緒に中に入れてくれる。慌てて階段を駆け上る。『強く叩いてください』ドアの張り紙を見つける。拳を固く作り、コンコンとノックする。「遅くにごめんなさい。私です。」
すぐに、しっかりとした足音が近づく。ダヴィッドの精悍な顔が迎えてくれる。「よく来た。携帯を忘れたね。待っていたよ。」
「遠慮せずに、中にお入りなさい。」しやがれた声が遠くでする。
すみません、と中に入ると、先程の空間は一変し、大きなコンピュータスクリーンが中央に据え置かれ、室内には音楽が流れている。ヴァイオリンを手にし、黒の革張りでゆったりとした大きな椅子から、円満の笑みをたたえた顔がこちらを見ている。明日のプログラムの最終点検か。我が家の庭から持って行ったリラの香りがかすかに届く。
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