いつもなら、
買ってきたばかりの、まだ表紙がぴんとしている本を片手に、
毛布にでも包まって、
ライムを皮ごと六つ切にして、三つほど潰し、グラスに放り入れ、
ミラベル酒をたっぷりと注いだ簡単なウォッカベースのカクテルを愉しみながら、
外の暗闇で小雨が月桂樹の葉を打ち付ける音に包まれて、
至福の時を過ごす筈であった。
先週から一晩たりとも5時間は寝ていない。
漸く金曜の夜で山を越え、
土曜の朝、朝露に濡れて光る屋根を見ながら、電話で最後の交渉をし、
お昼のキッチンで玉葱をまな板で刻んでいるときに、先方から譲歩の電話を受け、
慌てて午後のバイオリンのレッスンに駆けつけ、
長女バッタと末娘バッタを父親に預け、
息子バッタを友人の誕生パーティーに送り届け、
スーパーで一週間分の買い物をして、
一人、遅めの夕食を終えたところであった。
最近は、友達同士での連絡は自分達の携帯を使って。
携帯を持っていない息子バッタは、沢山の友達に恵まれていても、
彼らの連絡先を知らない。
彼らも、息子バッタの連絡先を知らない。
そんなことだから、
近所の仲間と誘い合わせて行けば良いし、
帰れば良いのに、
連絡できない状況で、仕方なく、私が車を出すことになっていた。
夜11時にお開き。
それこそ、いつもなら、土曜の夜11時などは、全く問題のない時間帯。
それでも、昨日に限っては、正直、倒れる寸前。
雨が寒さを呼ぶのか、
人気のいない大きな家が寒くなるのは当然なのか、
身体の芯が冷え冷えしてくる。
いつでも出陣できるように、外套を着込み、
キッチンの椅子で本を読み始める。
夢中になって、時間を忘れるといけないから、と目覚ましをセットする。
そうしているうちに、
携帯の音に揺り動かされる。
どうやら眠ってしまったらしい。
外に出ると、オレンジの街灯の回りが、まるで雪でも降っているかのように、霧雨が降り頻っている。
5時間前に息子バッタを降ろした場所に駐車し、
渡されたコード番号を押してみる。
なんの反応もない。
訝しげにプレートを見つめると、
番地が指定のものと微妙に違う。
そうか、ここじゃなかったのか。
5時間前の息子の足跡を辿る。
暗い夜道は、ひっそりとしていて、霧雨で顔を濡らしながら、
小説の一場面のような気分になっていた。
遠くで、賑やかなパーティーの音がする。
漸くたどり着いた大きなマンションの玄関でコード番号を押して、
重い扉を入る。
こんな時、息子バッタが携帯を持っていれば、本人に連絡をして、外に出てもらえるのにな、
との思いが頭を掠める。
中庭を入り、複数の建物の中から、一つ選び、新たなコード番号を押す。
さあ、一体、パーティー会場はどの階のどの部屋なのか。
招待状には、建物の前のコード番号を記されている以外は、何もない。
招待者の名前はファーストネームだけ。
これでは、調べようがない。
まさか、中庭で大声で彼を呼ぶなんて事は、できまい。
ローティーンの仲間入りをした彼に、
一生恨まれてしまうだろう。
と、インターフォンの近くに手書きのメッセージが。
今晩、誕生会をするので、賑やかになりますが、予めお詫びします。
どうぞご寛大に。
そこには、ちゃんと氏名が署名されている。
漸く、家族の名前をプレートから呼び起こし、
呼び鈴を鳴らす。
「ハーイ!どちら様?ご用は?」
素っ頓狂な若い女の子の声。
パーティーの終わりの時間でもあり、
そろそろ親が迎えに来ることぐらい、分かっても良さそうなもの。
ちょっと、そう、ちょっとだけ、むっとする。
そして、諦めて、息子バッタの名前を告げて、迎えに来た旨を伝える。
「えぇっ?なんですって?」
今度は、かなりむっとして、低い大きな声で、息子バッタの名前を告げる。
「あ~ら。は~い。」
漸く、建物の中に入れてもらえる。
それにしても、何階のどこなのか。
すると、目の前の扉がさっと開き、
お化粧をしていながらも、未だ幼い表情の女の子が出てくる。
携帯を手にしているところを見ると、
迎えが来た知らせで、会場から出てきたのか。
「二階です。」
意外に優しそうな表情で、その子が教えてくれる。
「出てきてくれないかしらね。」
そう言うと、一瞬、困った顔をして、立ち止まる。
「いえ、いいのよ。」
溜息をついて、覚悟を決め、階段の扉を開ける。
華やかな誕生会の会場に顔を出す気分ではちっともなかった。
しかも、昔のような誕生会をイメージしていたが、
すれちがった少女、いや、マドモワゼルの様子では、
ちょっとしたパーティー。
と、息子バッタが駆け下りてくる。
一言も発していないのに、
「ママ、ごめん。」
と言って、腕をとる。
「疲れているだけ。」
「ママ、車、停める場所、あった?」
「そうだ。住所違っていたね。あそこじゃなかったんだ。」
そういって、
雨が降り注ぐ中、腕を組みながら、
二人で笑い合う。
暫く笑い合っていると、
雨に濡れそぼって、街灯の光にきらめくシルバーの車体が現れる。
幸せとは、どこに転がっているのか、本当に分からないもの。
うきうきとした気持ちでアクセルを踏む。
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皆さんからのコメント楽しみにしています
息子バッタさんは本当にいい子ですね。
返信削除むふふ。
返信削除ありがとうございます。
霧雨の音がバックミュージック。