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2023年10月14日土曜日

イガグリ小僧

 






今にも泣きそうな空だと思っていたら、突風まで吹き始めた。森の木々はごうごうと音を立てて揺らぎ、小枝、どんぐり、毬栗が、ばらばらと地面にたたきつけられる。と、ばしん、っと物凄い勢いで左腕に毬栗がぶつかってきた。


あまりの激しさと、痛さに、思わず悲鳴を上げてしまいそうになる。帽子を被っているから頭に直撃される心配はないが、これは堪らない。トンカは大丈夫なのだろうか。当然のことながら靴を履いているわけでもないし、栗のイガが爪の先に入ってしまったら、痛いどころのことではないだろう。


そんなことは一向にお構いなし、といった風で、いつものように毬栗だらけの小径を小鹿のごとく駆け回っている。あまりに痛いので、そっとシャツをまくって腕を見てみると、栗の小さなイガイガがびっしりと腕に刺さっている。あっちゃあ。取り敢えず、つまめる分だけ取り除いたが、小さな赤い発疹が出始めている。トンカに比べて、なんてひ弱なんだろう。


なんだか、大雨になりそうな気配を感じるが、雨に打たれても、まあ良しとしようか。なんだか急に気が大きくなり、引き返そうかとの思いを打ち消して、森の奥に歩みを進める。トンカが、嬉しそうに飛び跳ねている。さあ、行こう!




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2023年10月11日水曜日

ヴェルヴェンヌの効用






朝夕こそ冷え冷えとしているのに、日中は真夏日のような暑さが続いている。地球にしても、大袈裟に言えば宇宙にしても、毎日いつも通りの平穏な日々というものは、存在しないのだろう。


そんなことは既に鴨長明が看破していたではないか。


行く河のながれは絶えずして

しかももとの水にあらず

よどみにうかぶ泡沫は

かつ消えかつ結びて

久しくとどまりたるためしなし

世の中にある 人と栖と 又かくの如し


庭にあるヴェルヴェンヌの爽やかな香りを凝縮した、自家製ハーブティーを淹れる。世界中の色々なざわめきが、その瞬間だけなくなり、自然の恵みを味わう。



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2023年10月6日金曜日

出会いの森

 





ばりり、ばりりと小気味よい音を立てて、コナラやクヌギのドングリの傘や実を足元で弾けさせながら森を闊歩する。隣ではトンカが負けずとばかりに、かりり、かりりと賑やかな音を立てて、栗の実を齧っている。


太陽はまだ西の空で薄っすらと輝いているが、そろそろ夕闇が迫ってきそうな気配が森中に満ちている。もうすぐ、暗闇でランプを灯しながら夕方の散歩をすることになるのか。そんな風に思いながら森の坂道を上っていると、やや遠くの栗の木の下に人影を認めた。


キノコ狩りをしているのだろう。8月の思わぬ収穫以来、気を付けてみてはいるのだが、ちっともセップを見かけていない。数日前に雨が降ったので、キノコ達がにょきにょきと目を覚まして姿を現しているに違いない。


姿が段々と鮮明に見えるようになってくると、どうやら青年らしいことが分かり、手には案の定大きめの籠を持っている。すれ違う時にお互い同時に挨拶の声を掛けていた。


「こんにちは!キノコですか?収穫の具合はどうですか?」

「こんにちは!お元気にしていましたか?」


え?知り合いの青年だったのかしら?そう思う間もなく、青年は言葉をつなげた。「森で冬に何度かお会いした方ですよね。鹿の写真を撮影していたの、僕なんです。」


一瞬、わけがわからなかったが、すぐにパズルはぴたりと収まった。嗚呼、ウィッツ!防寒具で頭まですっぽりと包まれていたので、瞳の色だけを覚えていたのだが、そうか、あの時の青年だったのか!


すごく嬉しくなってしまった。トンカにも伝わったのか、青年の周りをびゅんびゅんと歓喜のカンガルー跳びをした。青年が見せてくれた籠には、見事なセップがたっぷりと入っていた。青年の性格を表しているかのように、セップの足はどれも綺麗に削り取られ、丁寧に置かれたと思われる籠の中で鎮座していた。


夏に森で小鹿に出会った話をしたところ、大いに関心を寄せ、「僕も、母と一緒の時に、丁度ゴルフ場がある角で見たんですよ。」と教えてくれた。ひょっとしたら同じ小鹿だったのかもしれない。青年が母親と一緒に森を散歩し、小鹿を認め、二人で一緒に息を殺して小鹿を見守っている様子が目に浮かび、思わず微笑んでしまった。


僕たち、今夜はセップでご馳走です!


セップが綺麗に盛られた籠を受け取った時の青年の母親の驚きと笑顔、そして彼らの興奮した歓喜の声が聞こえてきそうだった。


それじゃあ、またね。


青年に別れを告げると、夕闇の気配が次第に濃くなってく森を、やや急ぎ足で、それでも足元に気を付けながら、セップを見逃さないようにと家路に向かった。



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2023年10月3日火曜日

他人の空似

 





同じ場所なのに、同じ時間なのに、日にちが違うだけで、こうも違った様相を見せてくれる自然に、憧れと同時に畏敬の念を覚えずにはいられない。


これから益々日が短くなって、朝の電車の車窓からの景色は、真っ暗闇になってしまうだろう。だから、今だけの楽しみと言えようか。


そんな風に窓の外ばかりに気を取られていた、いつもの朝。降車する駅名が告げられたことで、ふと視線を車内に戻すと、はす向かいに座っている男性が目に飛び込んできた。


ぎょっとしてしまった。知り合いにそっくりだったからである。ただ、その知り合いの若い頃と言えようか。スニーカーを履いていて、白いシャツに包まれた上半身は引き締まっている様子だった。それでも、髪型といい、本を読んでいる様子といい、とにかく知り合いに似ている。


最後に会ったのはいつだったろうか。もう3年前になるか。いや、4年前かもしれない。流石に、その間に若返ることはないだろう。恐らく白髪も交じるだろう年頃の筈が、目の前の男性の髪には白いものは見えなかった。それでも、どうしよう。声を掛けてみようか。


あまりにじっと見ていたからだろう。その男性が、こちらを鋭い眼光で、胡散臭そうに睨んだ。そのしかめっ面さえも似ているようで、慌ててしまった。


他人の空似、か。久しぶりに連絡をしてみることにしようか。元気にしているのかしら。



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2023年9月27日水曜日

林檎讃歌

 





庭の隅にある小さな林檎の木の枝がしなる程に、今年は林檎の実が鈴なりになっている。朝日が差し込む頃に、林檎たちの弾んだおしゃべりが聞こえてきそうなぐらいに、小さな実が輝いている様子がキッチンの窓から見て取れる。


長女バッタがフィレンツェに旅立つ前に我が家で週末を過ごしたが、庭の林檎たちの様子を見て、もうちょっとだわ、と言っていたことを思い出す。その代わりではないが、爽やかな香り高いヴェルヴェンヌの葉を摘んで、お茶用にと紙袋に入れて持って行った。


我が家の林檎は、とても素朴な、それでいてこれこそが正統の林檎だわと思わせる、落ち着いた赤色をしていて、齧れば、その実はぱりりと瑞々しく、小粒ながら爽やかな酸味と穏やかな甘みを持っている。


遥か昔のことになるが、フランスに来た当初過ごしたパリの郊外にある大学のキャンパスは、驚く程周囲に何もなく、森を駆け抜けて漸くたどり着く、一時間に一本あるかないかの2両程度の電車が通る、小さな駅の近くに、猫の額ほどの小さな慎ましいお店があるだけの場所だった。


唯一実社会との繋がりを保てる気がするそのお店で、幼い頃を思い出させる林檎に出会い、思わず手にして、幾つか買ったことを今でも覚えている。ぱりりと瑞々しく、爽やかな酸味と穏やかな甘みを持っていた。なんて美味しいんだろう、そう思って、大切に、大切に、味わった。


不思議なことに、あの時の林檎を店頭で見掛けることはなくなってしまった。パリのスーパーやマルシェでも、これかなと思って手にする林檎は、どれも柔らかすぎたり、甘すぎたり、或いは酸味が強すぎたり、そして、毒々しい赤であったり、ピンク色が強すぎたりとしていた。


それがどうだろう。ここ二、三年で実がなり出した我が家の庭の林檎が、正に、あの留学時代に心震わせて食べた林檎と同じ味がするのである。いつの間にか、家主の嗜好が庭の植物たちにも伝わるものなのだろうか。


今年は林檎の当たり年。自然の恵みに感謝し、ありがたく頂くことにしよう。いただきます。



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2023年9月18日月曜日

砂風呂ならぬ土風呂

 





最近のトンカは、泥で体温を下げることがお気に入り。泥と言っても、雨がちっとも降らない日々が続いているので、地面が掘り起こされて、柔らかく冷たい土が表れているところを探して、寝転がっている。


実際のところ、誰が地面を掘り起こしたのかは分からない。猪かもしれないし、他の犬仲間かもしれない。地面を掘り起こしている現場は見たことがないのだが、比較的あちこちで、柔らかくしっとりとした土がこんもりとしている。


そこに鼻を突っ込んだり、脚を投げ出したり、身体を横たえたりと、大いに楽しんでいる。


これって、砂風呂みたいなものかしらん。砂浜に連れて行ってあげたら、きっと大喜びで砂を掘って、身体を横たえるのだろう。なんだか、二人で仲良く砂に埋まっている様子を思い浮かべて笑ってしまった。


トン、いつか海に行こうね。



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2023年9月15日金曜日

緑の風

 





森を歩きながら、光と陰を追う。


木々の隙間から差し込む太陽の光が、地面に一筋の線を描く。地面が落ち葉で覆われていると、その部分だけ落ち葉が鮮やかな色に燃え立つ。地面に届く前に、小ぶりな枝があれば、太陽の光は濃厚な緑の葉を貫く。貫かれた葉は、葉脈まで見えるかのように透明感のある輝きを発する。


その様を画像に残したい。そう思って、携帯をかざす。しゃがみ込む時もあれば、背伸びをする時もある。仰ぐ時もあれば、のぞき込む時もある。そんな様子を、先を走っていた筈のトンカが、立ち止まって不思議そうに見ている。


待たせちゃったね。


急いでトンカの方に歩み寄る。だから、撮影した画像は散歩から帰ってから、大抵夕食後ののんびりとした時に確認する。納得する写真など、滅多に撮れたことがない。予想外の画像になっていることもある。


どうやら、今回はその予想外の展開。期せずして、緑の風が収まっていた。と、そうしておこうか。



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2023年8月23日水曜日

何事もほどほどに

 





このところ、森に散歩に行くたびに、ずっしりとした大きなセップに出会う。初めての時はビギナーズラックだろうぐらいに思っていたが、こう連日となると、どうやら今年は当たり年らしいと思われてきた。かつ、8月に収穫なんて時期が前倒し。自然の恵みに大いに感謝し、毎夕食に恭しくいただいていた。


ところが、どうも腕や足に、そして首にと小さな赤い発疹が出てきてしまった。


ひょっとしたら、あのミラベルたっぷりのタルトがいけなかったのかもしれない。ミラベルも、我が家の庭に黄金の粒がなるものだから、数年は毎朝採れたてを食していたのだが、数年後には蕁麻疹が出るようになってしまい、今では加熱しないと食べられないことが分かっている。クエッチにしろ、然り。不思議なことには、お店で売られているミラベルやクエッチを食べても、蕁麻疹は出ないのだから、訳が分からないと言えば分からない。


いやいや、これは摂取する量によるものなのかもしれない。流石に、お店で買う時はほどほどの量で、いただく時もほどほどの量。


セップにしても、同じことが言えるのかもしれない。


トンカのことを言えないではないか。とほほ。


先日ご自身の庭から採れた日本の胡瓜をいただいたご近所さんに、写真入りメッセージで森で採れたてのセップをお届けしたいのですが、お好きですか、と送ったところ、「天然茸は調理したことがないので」と遠慮されてしまった。毒キノコの可能性を危惧したのかしら。


せっかくだから、今度は保存食として調理してみようか。塩漬けになるのかしら。研究せねば。



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2023年8月14日月曜日

森の恵み





 


前日はセップを2つ見つけたのみだったが、本当にセップなのかと疑心暗鬼であったし、その場所で蚋やら蚊やらに刺されてしまったこともあって、すぐに別の場所に移動してしまっていた。


香り良し、味良し、生命を脅かす毒無し、となると、人間は欲が出てくるものである。あの場所にもう一度行って、他にもセップがないか探そうではないか、となるのは人間の性。どの道、トンカとは毎日散歩をする道すがらである。散歩のついでに、ちょっと森の奥深くに足を忍ばせても罰はあたるまい。


欲丸出しでは、森の精も黙ってはいないであろう。ましてや、森には鹿、猪、狐たちが生息している。彼らの貴重な食料を奪ってしまうのは本意ではない。などと、成人君主のようなことを言い連ねてみたところで、所詮俗人は俗人。美味しいセップをちょこっとだけ分けてくださいませね、との控えめながらも、食いしん坊精神満々で森にスキップで入って行った。


枯れ葉がやわらかに積もっていて、森の木立の隙間から太陽の光がさっと差し込んでいる、そんな神々しい場所に、どうやら茸は好んで生育するように思われた。単に、暗がりでは良く見えずに、見落としてしまっているのかもしれなかった。それでも、鬱蒼とした森の中で、落ち葉の絨毯の爽やかな緑の空間を見つけて足を踏み入れると、密集と言うよりは、ぽつりぽつりながらも、茸の生育が認められることが多かった。


果たして。バカンスで誰もいない森に、太っちょの白い軸に焦げ茶色の愛らしい丸い傘をつけたセップが、やわらかな緑の陰でひっそりと、しかし頼もし気に、姿を現してくれた。


嗚呼。森の精よ、ありがとうございます!



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2023年8月13日日曜日

千載一遇

 






夜じゅう雨音が絶え間なかった翌朝、空の壮大さを誇示するかのように頭上でたなびく鱗雲が、朝の光を浴びて薄桃色に染まっていた。こういう時に限って、携帯を持っておらず、心のシャッターを切る。


その日は一日中、晴れ間が出てくるようで、急に薄暗くなったり、雨が静かに降ってきたりと、不安定な空模様だった。それでも、いつものように夕方になると相棒のトンカと一緒に森に繰り出す。真夏とは思えない天候ながら、それでも蒸し暑さが一瞬ぶり返したようで、長袖で歩くと、汗がじっとりと出てきてしまう、そんな日だった。


こんな日は、鹿たちはどうしているのだろうか。ところどころで出現している泥濘に足を取られないように気を付けながら、鹿の姿が見えないかと木々の間に目を走らせて歩いて行った。トンカも蒸し暑さは苦手の様で、時々珍しく地べたに腹ばいになって、ひんやりとした土の感触を楽しんでいるかのように、相棒が来るのを待っていた。


このところの雨で、巨大な白いマッシュルームが道端に出現していたが、さすがのトンカも匂いを一度嗅いだきりで、目もくれなくなっていた。変わった種類の茸を見つけると、ついカメラを向けてしまうのは、昔取った杵柄といえば聞こえは良いが、単なるカメラ小僧の習性。出会いはシャッターチャンス、それが信条なのだから、仕方あるまい。


そんなこんなで、汗をかきながらも、時々立ち止まっては写真を撮り、のんびりと森を歩いていたところ、先日小鹿と出くわした場所に差し掛かった。と、目の前の道のど真ん中に、にょきっと生えている茸が目に飛び込んできた。


むむむ。これは、まさか。


手に取ってみると、身がしっかりとしていて手ごたえがある。鼻に持っていくと、何とも言えない芳しい香りが勢いよく頭脳を直撃し、大いに度肝を抜かれてしまった。こ、これこそが、あのセップ様ではあるまいか。


バカンスの真っ最中で、森には人っ子一人いない。だからなのだろうか。まさか道の真ん中に、幻のセップ様がおわしますとは思いもよらず、これこそ千載一遇の出会い。ありがたし。


素人は無暗に森で採った茸を食すべからず、なんていうことは、百も承知であるが、この香りと、そしてむっちりとした重みは、本物でせう。間違う筈はあるまい。本能がそう伝えている。ふっふっふ。



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2023年8月11日金曜日

森での駆け引き

 





もともと森は人気がないのだが、週末には時々マウンテンバイクに乗った集団や、ノルディックウォーキングとやらで二本の杖をガンガン鳴らして早歩きで駆け抜ける集団や、木の枝を背負ったスカウトの子供達と出会うことがある。ところが、今は何せ国中バカンス一色。一体皆どこに行ってしまったのだろうと思う程、誰もいない。


だからだろうか。このところ、夕方の散歩の折には頻繁に鹿と出会う。出会うという表現が正しいのか、トンカが見つけ出すといった表現が正しいのか。トンカと同じ柔らかい栗色の体躯なので、トンカかと思ってしまうことがある。大腿部の大きさに何か違和感を覚えていると、その傍をトンカが走り抜けることで、鹿だったのか、と分かることもある。


その日は、既に大柄の鹿が軽やかに森の中を横切って走っていく姿を見ていた。トンカは急いで追い駆けていったが、すぐに戻って来た。その辺の判断は、どうやっているのだろうか。トンカが深追いをしたことは、一度もない。いつまで経っても戻ってこない時は、どこかでトンカにとって美味しいものを見つけて、貪っている時である。


そこは森の中でもちょっとした坂になっていて、立派な大木が小径に沿って並んでいる、大いに絵になる場所であった。数メートル先を歩いていたトンカが、右方向を見つめたまま、ぴたっと立ち止まり、その後暫く微動だにしなかった。これはシャッターチャンス到来、とばかりに、数枚撮った。大抵携帯と言えど、カメラを向けるとぷいと歩き始めたり、別方向に飛んで行ってしまうトンカなので、もう少し近距離で撮影したいと、そろそろと近くに寄っていったが、それでも動かない。こんなこともあるのか。近距離で数枚、トンカの横向きの姿を撮影する。


トンカの緊張した姿に、近寄りがたさを覚えたが、どうした、とばかりに歩みを進め、トンカが見つめる方角を見た途端、仰天してしまった。2メートルもしない近距離に、トンカと同じ大きさの、トンカと同じ淡い栗色をした小鹿が可愛らしい顔をのぞかせていたのだから。その小鹿とトンカは、暫くの間じっと見つめ合っていた、ということなのだ。


緊張の糸が張り詰めたような二匹の動物同士の駆け引きは、人間の出現によりぷつりと中断され、一瞬のうちに小鹿は姿を消してしまった。


知らなかったとはいえ、トンカ、ごめんよ。


トンカはそんなことを一向に恨むでもなく、何でもないかのように、いつものように歩き出した。森は思いもよらない出会いに満ち溢れている。



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2023年7月31日月曜日

誘惑

 





今にも泣きだしそうな空を見上げて、思わずジャンパーのファスナーを首まで引き上げる。こんな時は森に入ってしまって、鬱蒼とした木々に守ってもらうに限る。トンかもそう思ってか、軽快に森の小径を駆けていく。


森の中では、あちこちの繁みに入り込んだり、藪の中で探索したり、リスを追いかけたりと、トンカは自由に走り回る。そして、遅れを取り戻すかのように猛スピードで追いつき、追い抜き、急ブレーキをかけてスピードを減速し、あたかも今まで一緒に歩いていたよね、のポーズで数歩前を歩きだすことが常だった。


その日も、森に入ると一瞬にして姿を消してしまったが、特に気にも留めずに歩き続けていると、暫くして左の奥からトンカが優雅に目の前を走り抜けて行った。いや、トンカではなかった。トンカと同じ栗色の毛色をしているが、体躯は3倍、いや4倍ぐらい大きかったし、何しろ、頭に角がついていた。若い牡鹿ではないか!


あまりの美しさに見惚れてしまう程だった。


トンカが若い牡鹿の魅力に引き込まれ、その後を追いかけて行ってしまうのも、大いに納得がいった。いつもなら、鹿の後ろにトンカの追いかける姿を見るのだが、今回は牡鹿に気を取られたからだろうか、トンカの姿は見えなかった。それでも、あの若い牡鹿と一緒に駆けていくトンカを想像することは容易だった。


トンカの幸せを思った。果たして人間界で狭い空間に閉じ込められ、人間の都合でしか森で遊ぶことができない今の生活は、幸せなのだろうか。どこか野性味を残すトンカの瞳は、いつだって飼いならされることを自戒しているように思われる。それでも、自然界に放ったところで、草の実や木の実を食べて生きていくことが出来るのだろうか。


しばらく茫然と立ち尽くしていると、遠くから枝を踏みしだく音が聞こえ、トンカの姿が現れた。いつものように猛スピードで追いつき、追い抜くと、急ブレーキを掛けて減速し、数歩前を歩きだした。


トンちゃん、戻って来てくれたのね。トンカの斜めにピンと立ち上がった威勢の良い尻尾を見つめながら歩き始めると、万感の思いが込み上げてきて、いささか大袈裟ではないかと思いつつも、あやうく落涙しそうになる。さあ、行こうか!



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2023年7月24日月曜日

雨上がり






雨上がりの森は、いい。


しっとりとした地面からは、やわらかな土の香りがして、草木は濡れ輝いている。鬱蒼とした緑のトンネルをくぐると、ぱっとハッカの香りが立ち昇る。


幼い時に、近所の神社のお祭りで、何度も何度も屋台の前を往復して、漸く決めたハッカパイプ。あの香りに間違いない。


トンカも爽やかな香りを楽しんでいるかのように、上を向いて鼻をしきりにひくつかせている。


風が吹くと、ぱらぱらと小気味よい音と共に木々の葉から雫が落ちてくる。森に生気がよみがえり、鳥たちがあちこちで羽ばたき始める。


雨上がりの森は、いい。



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2023年7月21日金曜日

雨を待つ

 




このところ、猛暑とまではいかないが、とにかく雨が降らない日が続いている。パリ程天気予報があたらない場所はないだろうし、そして、空模様が頻繁に変わるものだから、誰しもが天気予報をあてにしなくなる。それなのに、つい毎朝見てしまうのは、トンカとの散歩があるからだろうか。


気温が30℃を超えそうな時は、南に面したシャッターを下ろして外出しないと、留守番をしているトンカが煮え上がってしまう。雨が降りそうな時には、全ての窓がちゃんと閉まっているか確認する必要がある。


天気予報情報によれば、午後の降水確率が80%であったとしても、いつの間にか20%となり、次第に0%になってしまうことも少なくない。だから、森の中は乾燥しきっているし、地面がひび割れしている場所も出てきている。下草は焦げ茶色だし、藪を形成している植物は項垂れている。


それが、久しぶりに昨晩は静かな雨音が聞こえていた。朝には既に大地は水分を吸い取ってしまったかのように乾いてはいたが、トンカの足取りにもしっとりとした優雅さを感じることが出来た。草原も青々とした香りが匂い立っていた。


もう少し雨が降ってくれないものか。そうしたら、出来損ないの折り紙の様にくちゃくちゃにたたまれた私の心も、湿り気を帯びてふわりと膨らむだろうのに。




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2023年7月19日水曜日

アリドオシ

 





最近、散歩の途中でトンカが模範的なお座りの姿勢をとる場所がある。最初は、いつもの「もう動きません」の頑固な意思表示かと思ったが、どうでもそうではないらしことは、表情を見て分かった。意地っぱりではなく、素直な優しい表情をしていた。


そして、トンカが模範的に座す脇に、小ぶりな広葉樹の低木があることに気が付いた。びっしりと濃い緑の葉で覆われていたが、隙間から小さな赤がちらちらと窺えた。手を伸ばしてみると、意外なことに枝にはたくさんの細いながらも固く鋭い棘が生えていて、進入を拒んだのである。


小さな赤は、さくらんぼよりも一回り小さい林檎のような硬さを持った実だった。そんな実が幾つが枝についているのである。棘を上手に避けて、赤い実をぷつっと枝から失敬すると、待っていましたとばかりに目を輝かせて、それでも直立不動のようなお座りの姿勢を崩さずにいるトンカに差し出した。


トンカは厳かに、その赤い実を口に入れると、大いに満足そうにして、再び歩き始めた。


トンカがこのような行動に出なければ、見落とすことだった小さな赤い実。そういえば、我が家の庭にも似たような枝が生えてきていて、伐採する時に枝に棘があることに驚いたことを思い出した。あれは、こんな可愛らしい赤い実をつける低木だったのか。


さすがのトンカも、赤い実の魅力に、密集した枝の中に首を突っ込んだものの、堅く、細長い棘に行く手を阻まれて、無念と思っていたのかと思うと可笑しくなった。そして、私の助けを上手に引き出した姿に一層の愛おしさを感じてしまう。


同時に、人間は野生の牙をこうして丸くしてしまうのだな、と自分の行為に僅かながらの後ろめたさを感じてしまったことも事実。


こうして、暫くは散歩の途中でちょっとした儀式が楽しめることになった。赤い実の正体はなんなのだろう。ネットで検索してみると、アリドオシなのかもしれないと思われた。しかしアリドオシとは、なかなか乙な命名ではあるまいか。ね、トン。さあ、行こうか。



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2023年4月8日土曜日

春よ、ようこそ!

 





日本には四季がある、と良く言われるが、フランスでは日照時間の変化の激しさで季節の移り変わりを感じると言えようか。もっと詩的な言い方はないものかと考えてみたが、今のところは名案が浮かばない。年間トータルにしてみたら、地球上どの緯度においても日照時間に変わりはない。緯度が高く、夏に白夜となるのであれば、そこの冬は太陽が全く出てこないと時期もあることになる。


フランスの場合は白夜こそないが、夏時間を採用していることからも、夜の11時まで日が暮れない日々ある。真冬には朝の8時になっても未だ暗いこともある。そして、日々、日の出と日の入りの時間が、あれよあれよと変わっていく。


ほぼ定刻にトンカと早朝散歩に出ているので、この変化が手に取るようにわかるのも面白い。このところ日中暖かいので、あちこちで雑草が随分と育って草原状態になっている。そよ風で葉先がきらめいて、波のように見えるのも、をかし。早朝は霜が降りて細い葉の周りが真っ白になり、それが朝の日差しを浴びてあっという間に緑濃くなり、葉先に小さな雫が宿るのも、をかし。


嗚呼、春よ。ようこそ!


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2023年4月5日水曜日

有明の月

 




ぼんやりまなこで、未だ凍てつく早朝の草原に足を踏み入れた途端、息を思わず呑んでしまった。


丁度木々の間にすっぽりと収まる形で、まあるく輝いているものがある。まさかのお月様。トンカと一緒に地平線が良く見える丘まで行ってみよう。日の出前の藍色の空が次第に明るくなってくる中、月が地平線の向こうに隠れてしまう前にと、急いで走り、丘を一気に駆け上った。


果たして、有明の月は我々のことを待っていてくれて、にんまりと微笑んでいた。


トンちゃん、明日は5時に起きてお月見しようか。え?地平線に隠れる一瞬が切なくも美しいって?そうかなあ。ねえ、明日、ちょっと早めに起きて散歩に行こうよ。ね。


 


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2023年3月18日土曜日

予感

 





翌朝、サロンとキッチンの間のドアが少し開いていたので、夜中にトンカが水を飲みにキッチンに入って来たと思われた。当の本人が元気そうにおもちゃを咥えながら出迎えてくれた。良く眠って元気になったかしら。


いつもの通り早朝の散歩に出掛けようと庭に出て、靴を履いていると、シャキシャキと小気味よい音が聞こえて来た。ふと見れば、トンカが人参を齧っている。そうか。人参が好きじゃなくなったのではなく、人参が食べられない程弱っていたのか。


先日、近所の散歩仲間からトンカ用にと人参を分けてもらっていた。多く買い過ぎたらしく、悪くなる手前なので、もしもトンカが食べるなら、とのことだった。トンカは人参、大根、蕪、キャベツ、なんでも食べる、筈だった。特に与えているわけではないが、料理をしている時に隣で座ってじっと見ているので、切れ端を味見させてあげることがある。そんな時は大喜びで、大切そうに食べている。


いただいた当日、細身だったので人参を一本そのままあげると、喜んで庭に行って食べていた。これは良いいただきものをしたと喜んでいたのだった。具合が悪くなった当日、いただいた人参をあげると庭に出て行ったので、てっきり食べたと思っていたのだが、夕方の散歩の帰りに、庭の水飲みの脇に人参が転がっているのを発見した。


そういえば、散歩の前にも人参をあげると、ちょっと匂いを嗅いで、ぷいと横を向いたことを思い出した。なんだ、もう人参の味には飽きちゃったのかしら。そう思っていた。


それが、である。なるほど。人参が食べられない程、弱っていたのか。そして今は、人参が食べられる程元気になったということか!なんと、朗報ではないか!


実際のところ、何が原因で具合が悪くなったのか分からないが、弱った胃腸を更に傷めないようにと嘔吐することで身を守り、とにかくひたすら寝ることに徹したことが奏功したのだろう。いやはや、トンカの自衛本能、自然治癒力には脱帽するしかない。



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