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2023年10月20日金曜日

遂に堪忍袋の緒が切れてしまった巻 其の参

 






小川に沿った小径に差し掛かると、私は右に折れた。右は我が家に戻るルートであり、雨の日も、風の日も、日照りの日も、猛暑の中でも、真冬の暗がりでも、毎日通っている。そして、トンカが左に折れたことを気配で知った。


トンカよ。行くのかい。


これまでの私であれば、トンカの向かう左に一緒に行き、恐らく向こうから歩いてくるクロケットおじさんの傍で興奮しているトンカの首にリードをつけ、おじさんにお愛想を言って、トンカを引っ張って連れ戻したであろう。しかし、その時の私は疲れていた。


剥き出しの本能を見せつけられることも嫌だったし、私の命令よりもクロケットおじさんの魅力に引きずられるトンカを見ることが辛かった。ならば私もクロケットおじさんに負けずに、バゲットを一本与えれば良いのか。ハムの塊でもリュックに忍ばせて、ここぞとばかりに取り出せば良いのか。違うだろう。


散歩の時間帯をずらせば良いじゃないか、とも考えたが、何せ仕事が終わってからの散歩。これ以上遅くなると、それでなくても日が短くなっている昨今、帰りが暗くなってしまう。そして、これ以上早い時間帯での散歩は無理だった。


散歩の場所を変えれば良いじゃないか、とも考えた。しかし、鬱蒼とした森の中を通る場所は私の大のお気に入りで、あそこに足を踏み入れると毎回感動し、幸福感に浸れる。そこで鹿を追いかけるトンカの姿を見ることは、何よりの癒しだった。小川の小径も、散歩の途中に喉を潤すに最高であり、小川に映し出されたリフレクションの世界をのぞき込むことも楽しかった。


果たして。


左に折れたトンカは、一向に戻ってこない。口笛を鳴らして呼んでも、大声で名前を呼んでも戻ってこない。それが全く効果のない行為であることは、これまでの経験で知っていた。


一人、小川のほとりにしゃがみ込み、トンカを待つ。この状況から脱却せねばならない、この状況を作ってはなるまい、そのことだけを考えていた。哀しみだけが心を支配し、じわじわと虚無感に襲われ、気が付くと顔を覆って泣いていた。


ようやくクロケットおじさんと彼が連れている彼の近所の黒い大きな犬とトンカが、連れ立ってやってきた、筈である。正直なところ、詳細は覚えていない。おじさんが良い方であり、トンカを可愛がってくださっていることには感謝していますが、もうトンカに餌を与えないでください、そう懇願している自分がいた。


クロケットおじさんは、分かったけれど、私は呼んでもいないのに、ついてくるのだよ、と困惑気な顔で言い始めた。私が餌をあげなくても、私が連れている犬にひかれてくるんだよ。


いえ、おじさんが餌をエンドレスで与えるから付きまとうのです。それを止めて欲しいのです。他の犬と出会った時には、一緒に遊んでも、その後は必ず私のもとに帰ってきます。おじさんと一緒の時には、トンカはどんなに呼んでも戻ってきません。おじさんのところにいるのは、おじさんが餌を与えるからです。それを止めてください。


クロケットおじさんは、そんなに言うならリードをつけて散歩をすべきだね、と言い始めた。その間、悲しいかな、トンカはずっとおじさんに付きまとっている。お座りをして見せたり、ポケットに手を掛けてみたりと、おじさんの関心を得ようと必死になっている。


トンカのつぶらな瞳に見つめられ、おじさんは「マゾじゃあるまいし」とつぶやいた。


えっ?マゾ?いいじゃないですか!マゾで上等。そうですよ。私はヒステリックで、マゾヒストなんです。


いや、貴女のことではない。


おじさんは大いに困惑気だった。今思えば、確かに、トンカにねだられているのに、おやつをあげない行為のことを言っているのだろう。この場合のマゾの対象とはトンカのことか。その時の私には、どうでも良いことだった。とにかく、その言葉に誘発されたがのように、トンカに有無を言わせずリードを引っ張り、走り出した。


哀しみで胸が張り裂けそうだった。おじさんを恐らくは傷つけてしまったことだろう。それでも、兎に角、この関係を終わりにしたかった。トンカは、分かっているのか、分かっていないのか、その日は散歩から帰ってくると、真っすぐお気に入りのソファーの片隅に陣取ると、深い眠りに落ちた。


そう。いがみ合いの後に何が残ろうか。忘れてしまうことが一番。嗚呼、忘れてしまえれば良いのだが!取り敢えずは、先ずは眠ろうか。



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2023年10月19日木曜日

遂に堪忍袋の緒が切れてしまった巻 其の弐

 




その日も、いつものように森の中を駆け回り、栗を齧り、泥水を味見し、枯れ葉を蹴散らしながら小川のある散歩道にたどり着く、千と千尋の神隠しに出てきそうな小径を夕陽に黄金色に燃えながら走り降りていた。ふと、トンカが立ち止まる。顔を心持ち上にし、耳をピンと立てて様子を伺っている。実際にはトンカの耳は自力では立たないのだが、神経を張り詰めている様子が全身から伝わってくる。


トンカにとってのサンタおじさん、私にとっての困ったおじさん、つまり例のクロケットおじさんと出会う道に差し掛かったということだった。そして、トンカはサンタおじさんの気配を全身で感じ取っている。


ちょっと前なら、微笑ましい姿だった。森で鹿と出会う時にも、同じような姿勢を取ることがあったし、全身全霊を掛けて何かをするトンカを見ることは喜びでもある。しかし、その後のトンカの態度、何も見えなくなってしまう様子に辟易していたので、一瞬にして心にずしんと鉛の塊を感じてしまった。


トンカは動物で、餌の前では本能をむき出しにする。子供達が捨て散らかした食べかす、ハイカーたちが落としていったティッシュ、時に彼らの汚物、スカウトたちのキャンプ後の残飯など、見つけようものなら飛びついてしまう。そこからトンカを引き離すことは至難の業である。


最近、ようやく落ちているティッシュを食べなくなったが、それでも、特にそれに汚物が付いている時などは一瞬にして口に入れて飲み込んでしまう。それがトンカの本性なのだと言われれば、返す言葉は一言もないが、それでも餓鬼のように貪る姿を見ることは辛い。


トンカは以前勝手にすっ飛んで、車道を私を探してかっ跳んでいる時に確保してくれた夫婦が大好きで、見掛けると大喜びで挨拶に行く。そんな姿を見ることは嬉しいし、彼らに甘える姿は微笑ましく、こちらも気付くとにんまりとしてしまう。


しかしながら、サンタおじさん、困ったおじさん、所謂クロケットおじさんの場合は、全く違うのである。なぜなら、おじさんはエンドレスでクロケットを与え続けるような態度をとるので、トンカはいつまでたってもおじさんの傍を離れない。私が呼んでも、隣で駆け出しても、何をしても効果がない。つまり、私の姿が見えなくなってしまうのである。


クロケットおじさんのポケットから全てのクロケットがなくなってしまったら、森でキャンプ後の残飯を見つけた時の様に、トンカは暫くすれば私のもとに慌てて全速力で戻ってくるのだろうか。そんな恐ろしい、トンカを試すようなことは出来ないし、していない。それでも、そんな不安を感じさせるこの出会いが、トンカの動物としての本能を見せつけられることへの苦々しさもあって、苦痛になってきていた。



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2023年10月18日水曜日

遂に堪忍袋の緒が切れてしまった巻 其の壱

 





鹿の後を追いかけて行っても、森で何かに引っかかっても(大抵はキャンプやピクニックの後の食べ残し)、数分もすれば、いや数十分もすれば、必ず戻ってくるトンカ。そして、必ず待っている私。相互信頼関係が築き上げられたと思っているのだが、一つだけ例外がある。


トンカにとっては会えばたっぷりのおやつをくれるサンタおじさん、私にとっては、トンカがちっとも言うことを聞かなくなってしまう困ったおじさん。おじさんにいつも出くわす場所にくると、トンカはソワソワして立ち止まっておじさんの姿を探し、私の存在はその間すっかり消えてしまう。


以前にも書いたことがあるが、おじさんはポケット一杯にクロケットを持っていて、トンカに出会うと大きな手にいっぱい取り出し、与え続ける。時には、二度目の大盤振る舞いもある。最初から大いに戸惑ってしまっていた。トンカを可愛がってくれていることには、感謝しかなく、お礼を言いつつも、一つだけで結構です、と言い続けて来た。


こういうことは、最初が肝心なのだろう。やめてください、とはっきりと断れば良かった。おじさんは善意の塊であり、トンカは大いに喜んでいるのだから、どうにも困ったものであった。しかし、おじさんに会うたびに、トンカはおじさんしか見えなくなり、いや、現実にはおじさんの持っているクロケットしか見えなくなり、私がどんなに呼んでも効果がない。


一度は、トンカを連れて行きたいのであれば、どうぞお連れください、とまでおじさんに言ってしまったこともあった。その時から、おじさんに会う場所にくると、はしゃぐトンカをよそに、心に錘がつけられたかのように辛く、悲しく、なんでこんなことになっているのだろうかと自問してきた。毎回、トンカがおじさんのところに走って行き、お座りをしてドッグフードを与えられている傍で、トンカにリードをつけ、引っ張って連れ戻す、ということの繰り返しだった。


おじさんは、ちっともこちらの気持ちを分かってくれていないようで、リードで連れ戻されるトンカが名残惜しそうにおじさんを見つめていると、ほらっとクロケットを投げてくる時もあった。そんなことしないで欲しい。やめてください。心の中で叫び続けてきた。


私にも、散歩の途中でトンカの仲間たちに煮干しを振る舞う時がある。それでも、一つだけが基本で、私自身もトンカには一回に一つだけあげている。下手をすると、おじさんのおやつは一回に与える餌の半量ぐらいに相当することもある。


いつかはっきりと断らねば、そう思ってきたのだが、そのいつかが、先日思わぬ格好で起きてしまった。



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2023年10月14日土曜日

イガグリ小僧

 






今にも泣きそうな空だと思っていたら、突風まで吹き始めた。森の木々はごうごうと音を立てて揺らぎ、小枝、どんぐり、毬栗が、ばらばらと地面にたたきつけられる。と、ばしん、っと物凄い勢いで左腕に毬栗がぶつかってきた。


あまりの激しさと、痛さに、思わず悲鳴を上げてしまいそうになる。帽子を被っているから頭に直撃される心配はないが、これは堪らない。トンカは大丈夫なのだろうか。当然のことながら靴を履いているわけでもないし、栗のイガが爪の先に入ってしまったら、痛いどころのことではないだろう。


そんなことは一向にお構いなし、といった風で、いつものように毬栗だらけの小径を小鹿のごとく駆け回っている。あまりに痛いので、そっとシャツをまくって腕を見てみると、栗の小さなイガイガがびっしりと腕に刺さっている。あっちゃあ。取り敢えず、つまめる分だけ取り除いたが、小さな赤い発疹が出始めている。トンカに比べて、なんてひ弱なんだろう。


なんだか、大雨になりそうな気配を感じるが、雨に打たれても、まあ良しとしようか。なんだか急に気が大きくなり、引き返そうかとの思いを打ち消して、森の奥に歩みを進める。トンカが、嬉しそうに飛び跳ねている。さあ、行こう!




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2023年10月6日金曜日

出会いの森

 





ばりり、ばりりと小気味よい音を立てて、コナラやクヌギのドングリの傘や実を足元で弾けさせながら森を闊歩する。隣ではトンカが負けずとばかりに、かりり、かりりと賑やかな音を立てて、栗の実を齧っている。


太陽はまだ西の空で薄っすらと輝いているが、そろそろ夕闇が迫ってきそうな気配が森中に満ちている。もうすぐ、暗闇でランプを灯しながら夕方の散歩をすることになるのか。そんな風に思いながら森の坂道を上っていると、やや遠くの栗の木の下に人影を認めた。


キノコ狩りをしているのだろう。8月の思わぬ収穫以来、気を付けてみてはいるのだが、ちっともセップを見かけていない。数日前に雨が降ったので、キノコ達がにょきにょきと目を覚まして姿を現しているに違いない。


姿が段々と鮮明に見えるようになってくると、どうやら青年らしいことが分かり、手には案の定大きめの籠を持っている。すれ違う時にお互い同時に挨拶の声を掛けていた。


「こんにちは!キノコですか?収穫の具合はどうですか?」

「こんにちは!お元気にしていましたか?」


え?知り合いの青年だったのかしら?そう思う間もなく、青年は言葉をつなげた。「森で冬に何度かお会いした方ですよね。鹿の写真を撮影していたの、僕なんです。」


一瞬、わけがわからなかったが、すぐにパズルはぴたりと収まった。嗚呼、ウィッツ!防寒具で頭まですっぽりと包まれていたので、瞳の色だけを覚えていたのだが、そうか、あの時の青年だったのか!


すごく嬉しくなってしまった。トンカにも伝わったのか、青年の周りをびゅんびゅんと歓喜のカンガルー跳びをした。青年が見せてくれた籠には、見事なセップがたっぷりと入っていた。青年の性格を表しているかのように、セップの足はどれも綺麗に削り取られ、丁寧に置かれたと思われる籠の中で鎮座していた。


夏に森で小鹿に出会った話をしたところ、大いに関心を寄せ、「僕も、母と一緒の時に、丁度ゴルフ場がある角で見たんですよ。」と教えてくれた。ひょっとしたら同じ小鹿だったのかもしれない。青年が母親と一緒に森を散歩し、小鹿を認め、二人で一緒に息を殺して小鹿を見守っている様子が目に浮かび、思わず微笑んでしまった。


僕たち、今夜はセップでご馳走です!


セップが綺麗に盛られた籠を受け取った時の青年の母親の驚きと笑顔、そして彼らの興奮した歓喜の声が聞こえてきそうだった。


それじゃあ、またね。


青年に別れを告げると、夕闇の気配が次第に濃くなってく森を、やや急ぎ足で、それでも足元に気を付けながら、セップを見逃さないようにと家路に向かった。



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2023年9月28日木曜日

焼き立てのチーズスフレケーキ、忽然と消えるの巻

 





一週間ほどご長女のいるノルマンディーに出掛けていたお向かいの90歳になるマダムが、帰ってきたら丁度お庭の無花果が熟れていると、薔薇の花をあしらった小皿に幾つか盛って差し入れをしてくれた。


丁度庭の林檎でアップルケーキを焼いたところだったので、一切れお返しにお届けすることにした。無花果の粒は歯にはさまるから食べなくなったマダムだが、焼き林檎ならば大丈夫だろう。林檎の皮を剥いてはいないが、十分にフライパンで焼き色を付けてから、じっくりとオーブンで焼き上げたので、皮の存在を感じさせない仕上がりになっている。


あら、まあ、と円満の笑みで嬉しそうに受け取ったマダムだったが、アルミ箔をぱっととってケーキを見て、一瞬にして顔を曇らせてしまった。思い込みとは恐ろしいもので、「アップルケーキ」と伝えた筈だったのに、以前作って大好評を博した「チーズスフレケーキ」を期待していたらしい。


なんて純真なんだろう。そして、とても分かりやすい。


冷蔵庫に丁度クリームチーズがあったことを思い出し、翌日、例の割れないチーズケーキの焼き方を復習し、テレワークで自宅にいたことを良いことに、昼休みにぱぱぱっと焼き上げた。程よく冷めたところで、お皿に載せて写真を撮り、トンカの散歩に出掛ける時に、マダムに渡すことにした。


それから、ちょっとした仕事が舞い込んで、集中して作業をし、なんとかトンカが騒ぎ出す前に仕事を終え、トンカに夕食を与え、洗面所で手を洗って戻って来た瞬間、何か違和感を覚えた。何かがおかしい。


焼き立てのやわらかな甘い香りだけを残して、お皿からチーズスフレケーキが忽然と消えてしまっていた。お皿には、まだ温かさが残っていて、しっとりと湿り気があったが、それ以外は何もない。テーブルクロスに乱れもないし、椅子もきっちりとテーブルに収まっている。


え?


ぱっとトンカを見ると、舌をぺろぺろとしている。


え?君、夕食を食べたばかりだよね。その足で、勝手にデザートまで食べちゃったの?


おい、おい、おい!クリームチーズ200グラム、卵3個、砂糖60グラム、牛乳50㏄、バター30グラム、これ、みんなトンちゃんのお腹に入っちゃったの?


で、お味はどうだった?せめて、もうちょっと、味わって欲しかったなあ。


実は、準備していた焼き型に入りきれなかった分を、一人分程の量だがマグカップに入れて焼いていた。今回はマダムにはこれを差し上げよう。


その夜、すっかり満足したであろうトンカは、ぐずること一切せずに、お腹を見せてぐっすりと寝入っていた。まあ、時にはいいかな。一事が万事こんな調子なのだから、躾なんてちっともできていない。気持ちよさそうな寝息を立てるトンカに、ケーキが如何に美味しく焼けたかの答えを見た気がした。



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2023年9月18日月曜日

砂風呂ならぬ土風呂

 





最近のトンカは、泥で体温を下げることがお気に入り。泥と言っても、雨がちっとも降らない日々が続いているので、地面が掘り起こされて、柔らかく冷たい土が表れているところを探して、寝転がっている。


実際のところ、誰が地面を掘り起こしたのかは分からない。猪かもしれないし、他の犬仲間かもしれない。地面を掘り起こしている現場は見たことがないのだが、比較的あちこちで、柔らかくしっとりとした土がこんもりとしている。


そこに鼻を突っ込んだり、脚を投げ出したり、身体を横たえたりと、大いに楽しんでいる。


これって、砂風呂みたいなものかしらん。砂浜に連れて行ってあげたら、きっと大喜びで砂を掘って、身体を横たえるのだろう。なんだか、二人で仲良く砂に埋まっている様子を思い浮かべて笑ってしまった。


トン、いつか海に行こうね。



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2023年9月17日日曜日

良いこと尽くし







ボーダーコリーのタンジェリンちゃんとお知り合いになる。タンジェリンって、確か蜜柑の総称だったよな、と思い、目の前の元気なボーダーコリーと結びつかないが、そんなことを言ったら、トンカだって同じだろう。パティシエが聞いたらぎょっとするに違いない。現に、先日レストランで、デザートにトンカ味のするクレームブリュレがあって、ぎょっとしてしまった。


タンジェリンと言えば、橙色のジューシーで穏やかな味わいの蜜柑の印象が濃厚だが、飼い主にとっては、白と黒の毛むくじゃらで、エネルギーの塊のようなボーダーコリーのタンジェリンが真っ先に思い浮かぶのであろう。


トンカとの相性は抜群で、二匹は林を駆け回り、立ち話をしている飼い主たちの足元を狙ったかのように体当たりをし、絡み合ったり、飛び跳ねたりと大騒ぎをしている。


一歳になるタンジェリンちゃんを連れていたのは、シニアのご夫婦だった。最初は彼らの犬かと思っていたが、話し込むにつれ、ご近所さんの犬であることが判明した。シニアのご夫婦は二週間前に16年連れ添っていたシェトランドに旅立たれてしまい、呆然としていたところ、2歳の幼い男の子がいる近所の若い夫婦が、遊び盛りのタンジェリンを持て余していると聞いて、散歩に連れ出すことを申し出たという。


彼らも助かるし、我々も楽しいし、タンジェリンも喜んでくれるし、とにかくお互いに良いこと尽くしなのよ、とマダムが嬉しそうに笑う。


まあ、それは素敵。ご連絡先伺ってもよいでしょうか。と茶目っ気たっぷりに言うと、皆で大笑いとなった。


うっかりと、新たに犬を迎えるご予定は、などと不用意なことを言ってしまったら、急にマダムの顔が曇って、未だ無理ですよ、と震える声で返された。2週間前に別れを告げたばかりなのに!ああ、そうでした。ごめんなさい。


マダムは可愛いシェルティの写真を見せてくれた。それまで元気にじゃれ合っていたタンジェリンちゃんとトンカは、漸くひと段落付いたかのように、息を切らしながらも緑の草原に仲良く横たわった。


あまりに愛らしい二匹だったので、写真を撮ろうとすると、トンカが相変わらず動きだしてしまう。レンズを向けられることが、本当に苦手なトンカ。後から確認をしてみると、なんだかトンカがタンジェリンちゃんに話しかけている様子が撮影されていて、大いに笑えた。


二匹とも、びっしょりと汗を掻いていた。そう、その場では感心したものだったが、よく考えると、犬は皮膚に汗腺がないので汗を掻く筈がないではないか。では、あの体中びっしょりと濡れていたのなんだったのだろう。草の露だったのかしら。


シニアのご夫婦とタンジェリンちゃんに別れを告げる。また是非会いましょうね、と。




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2023年9月16日土曜日

秋の気配

 







ノルマンディーで趣味の陶芸を楽しんでいる友人からメッセージが入る。「好天続き。週末は海に繰り出す予定。遊びに来られたし。」


彼女が、旦那の会社の都合で日本駐在から一年も経たずに帰国してから既に一年になろうか。以前は毎週末の様に会っていた大切な友人夫婦なのに、すれ違い続きでちっとも会えていない。そもそも、彼女の犬嫌いを知らなかったことが要因だが、知っていたからといって、トンカを我が家に迎えないという選択肢はあっただろうか。


加えて、以前は近所に住んでいたのだが、最低三年の駐在になるとの当初の予定により、住んでいた家を3年契約で貸してしまっている。子供達もバッタ達と同年代で、一人はバリ、一人はロンドンでそれぞれに生活をしている。従い、友人夫婦はパリでのアパート生活をしている。


ノルマンディーに大きな家を持っているので、週末は大抵ノルマンディーで過ごしている。旦那は本社の重要なポストに就任し、これまで以上に毎日忙しく海外を飛び回り仕事をしている。彼女と言えば、旦那の日本駐在を機に勤務先の会社を取り敢えず二年間休職したが、フランスに戻って来たことを会社に告げずに休職状態を維持し、趣味の陶芸で専門学校に通い資格を取り、加えて、不動産取引の資格も取ってしまった。


それが、ついに来週は職場復帰をするという。ところが、復帰にあたり給与アップを交渉しているというから驚いてしまった。二年間も不在にしていたのに、給与アップを願い出るとは凄い度胸である。この強気な姿勢は、友人ながらも天晴としか言いようがない。


これまでの彼女の人生そのもの、と言えようか。いつだって攻めの姿勢にありながらも、上手くいかなければ縁がなかったときっぱりと捨て去る潔さを持ち合わせている。自分のスタイルが気に入らないのであれば、結構、といったところか。他人に迎合することは一切しない。


全く私と正反対ではないか。それでも、何故か会った時から気が合う。それに、そうは言っても、内面に秘める彼女の繊細さを幾度となく目にしてきた。多くの価値観を共有し、共鳴し合う貴重な同士であることも確かである。


今週末はバッタ達が皆それぞれにフィレンツェ、デルフト、ダンケールで過ごしていて、誰も家にいないので、残念ながら家を空けることはできないと言うと、近所の誰かに犬を預けることは出来ないのか、と返事がきた。


彼女が犬を好きになることは、恐らくない。彼女と週末を過ごすには、トンカを誰かに預けないことには実現しない。


そうねえ。空を仰ぎ、透明な青色の広がりを見つめる。秋の気配が確かに近づいている。



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2023年9月15日金曜日

緑の風

 





森を歩きながら、光と陰を追う。


木々の隙間から差し込む太陽の光が、地面に一筋の線を描く。地面が落ち葉で覆われていると、その部分だけ落ち葉が鮮やかな色に燃え立つ。地面に届く前に、小ぶりな枝があれば、太陽の光は濃厚な緑の葉を貫く。貫かれた葉は、葉脈まで見えるかのように透明感のある輝きを発する。


その様を画像に残したい。そう思って、携帯をかざす。しゃがみ込む時もあれば、背伸びをする時もある。仰ぐ時もあれば、のぞき込む時もある。そんな様子を、先を走っていた筈のトンカが、立ち止まって不思議そうに見ている。


待たせちゃったね。


急いでトンカの方に歩み寄る。だから、撮影した画像は散歩から帰ってから、大抵夕食後ののんびりとした時に確認する。納得する写真など、滅多に撮れたことがない。予想外の画像になっていることもある。


どうやら、今回はその予想外の展開。期せずして、緑の風が収まっていた。と、そうしておこうか。



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2023年9月11日月曜日

小休止

 






こうも暑い日が続くと体が参ってしまう。森の中でも、空気が全く動いていない。こんな日は、トンカではないが地べたにへばって、土の冷たい感触を味わいたいもの。


散歩から帰ると、ぐっしょりと汗を掻いている。いつまでも猛暑が続く筈はないと思いながらも、げんなりとしてしまう。


ところが、もっとげんなりとしてしまうことに、どうやら風邪を引いてしまったらしいのである。急にくしゃみが止まらなくなったと思ったら、鼻水が出てきて、そして、終いには喉に痛みを感じるようになってしまった。


なんたること。


暑いからといって、風邪を引かないわけではないのか。トンカの為に散歩の時には水筒をリュックに入れているが、自分用には持って行っていないので、水分補給ができていなかったことが原因なのかもしれない。


やれやれ。まあ、暑い日には、そんなに頑張って散歩しなくてもいいんだよ、とのお告げなのかもしれない。さくっと切り上げて、体力保存することも必要であろう。灼熱の中でラグビーのワールドカップが開催されているが、プロとはいえ、選手に頭が上がらない。見事なプレーに拍手喝采。





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2023年9月3日日曜日

君の耳に乾杯

 







未だ夏であることを思い起させるような暑い日となり、こんな時間に散歩に出てしまったことを恨めしく思いつつ、それでも元気に尻尾の先を威勢よくくるりと丸めて闊歩するトンカの後ろ姿を愛しく思いながら歩いていた時のこと。グレーのピットブル君が藪からさっと姿を現した。


彼とは何故か暑い日に出くわすことが多く、散歩仲間のグループとは一線を画している存在である。ピットブルという犬種がそうさせるのかもしれないし、飼い主の若い青年がどちらかと言うと定年間近の飼い主たちとつるむことを面倒くさく思っているのかもしれない。


フランスではピットブルを飼う場合、居住する自治体が発行する所持許可書を取得せねばならず、常にそれを携帯していないと罰金を科される。トンカを散歩している時に、これまでパトロール中のパトカーとすれ違ったことが何度かあるが、いつも警官はニコニコしていた。ところが、飼い主によっては、散歩中に糞を入れる所謂プーバッグを所持しているか抜き打ち検査をされたことがあると聞いて、びっくりしたことがある。


正確には飼い主によって、ではなく、犬種によって、ということなのだろうか。トンカなど人畜無害そのものの優しい顔をしているので、警官も気にも留めないのであろう。だからか、グレーのピットブル君の飼い主は、ピットブル君とトンカが匂いを嗅ぎ合う挨拶をすることさえ、あまり良くないことと思っている節がある。何かあった後では、遅すぎるからであろう。お互いに悲しい思いをしかねない。


ピットブル君は、いつでもテニスボールを齧っていて、ワンと吠えることもない。これは、無暗に吠えたり、噛みつかないように躾をされているということなのだろうと思われる。


それでも、何回目かの逢瀬ともなると、お互いに挨拶をするようになるし、気も緩み次第に打ち解けた雰囲気が生まれてくる。しかも、この炎天下、お互いにやれやれ、暑いですねえ、お疲れ様です、との気持ちを共有したくなるものである。


ピットブル君、ちゃんと躾が出来ていて立派ですね。いつもボールを口に咥えていて可愛いこと。名前は何ですか。


と聞いてみたところ、非常に聞き取りにくい名前を告げられた。同じように発音してみたものの、どうやら違うらしい。すると、スペルを綴ってくれた。「デー、アー、エール、カー」え?ダーク?ふと若者のTシャツを見ると、なんだかアラビア文字が躍っている。ああ、彼の母国語のアクセント濃い発音なのか。


ふっと、暗澹たる思いが胸を過る。ピットブル君に、もうちょっと幸せな名前を付けてあげても良かっただろうのに。いや、それはこちらの勝手な思いあがった考えか。煙草の匂いが暑い叢のむっとした香りとともに鼻を掠めた。


皆、それぞれの人生があり、その人にとって何が幸せかなど誰にも分からないし、本人だって分かっていないことも少なくない。それでも、生きていくのが人生。


おい、ピットブル君。幸せになるんだよ。そして、君の飼い主君をいつまでも愛で包んであげるんだよ。君のシックでお洒落なグレー色をした、ピンと尖った愛らしい耳に乾杯。



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2023年9月2日土曜日

旅は道連れ世は情け

 





最近変な癖がついてしまって、夜中にふと目が覚め、つい携帯でメッセージを確認し、ツイッターの投稿を目で追ってしまい、気になると深追いをして、小一時間近く経ってから、また眠るといったことをしている。当然、翌朝の目覚めは芳しくなく、なんだか頭がぼーっとしている。


これは良くない、と就寝中は飛行機モードにするのだが、それでも効果がない。身体が微妙な電磁波を感じ取るのだろうか。随分前の、スマホ時代ではない携帯の時には、電源を切ってもアラーム機能は生きていた。と、思う。ところが、スマホは電源を切ってしまうと、アラーム機能は使えない。


アラームがなくても、定刻に起きる自信はあるし、週末は問題ないのだが、何かあったらと思うと流石にアラームは付けていたい。それなら、電池式の時計を使えばいいのだろうが、こちこちという音が気になってしまいそうで、飛びつけない。


それが、ありがたいことに、この一週間、眠りに着いたら翌朝までぐっすりと眠ることができている。当然、翌朝の目覚めは爽快である。携帯を飛行機モードにし、枕元ではなく、ベッドの脇の床に、ごろっと置いて置くことにしただけであるが、効果抜群と言えようか。


海外に住んでいると母国のニュースが気になるものだが、最近は母国語で現地と同時に入手することができる。これは非常にありがたい反面、しっかりと自己管理をしないことには日本時間で生活をするようになってしまう危険を孕んでいるのではあるまいか。学校に行ったり、仕事をしたりと、現地の社会に組み込まれた生活をしている分には良いが、リタイアした場合には、どうだろうか。


と、隣でトンカが猫みたいに音を立てて毛繕いをし始めた。トンカという相棒がいるうちは、朝夕の散歩という日課があるので、比較的健康な規則正しい生活が送れそうだな、と思うに至る。


旅は道連れ世は情け。トンカよ、我が人生に現れてくれて、ありがとうよ。社会に貢献する上でももうちょっと仕事を続けるけれど、そのうちリタイヤするだろうから、その時は、よろしくね。



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2023年8月23日水曜日

何事もほどほどに

 





このところ、森に散歩に行くたびに、ずっしりとした大きなセップに出会う。初めての時はビギナーズラックだろうぐらいに思っていたが、こう連日となると、どうやら今年は当たり年らしいと思われてきた。かつ、8月に収穫なんて時期が前倒し。自然の恵みに大いに感謝し、毎夕食に恭しくいただいていた。


ところが、どうも腕や足に、そして首にと小さな赤い発疹が出てきてしまった。


ひょっとしたら、あのミラベルたっぷりのタルトがいけなかったのかもしれない。ミラベルも、我が家の庭に黄金の粒がなるものだから、数年は毎朝採れたてを食していたのだが、数年後には蕁麻疹が出るようになってしまい、今では加熱しないと食べられないことが分かっている。クエッチにしろ、然り。不思議なことには、お店で売られているミラベルやクエッチを食べても、蕁麻疹は出ないのだから、訳が分からないと言えば分からない。


いやいや、これは摂取する量によるものなのかもしれない。流石に、お店で買う時はほどほどの量で、いただく時もほどほどの量。


セップにしても、同じことが言えるのかもしれない。


トンカのことを言えないではないか。とほほ。


先日ご自身の庭から採れた日本の胡瓜をいただいたご近所さんに、写真入りメッセージで森で採れたてのセップをお届けしたいのですが、お好きですか、と送ったところ、「天然茸は調理したことがないので」と遠慮されてしまった。毒キノコの可能性を危惧したのかしら。


せっかくだから、今度は保存食として調理してみようか。塩漬けになるのかしら。研究せねば。



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2023年8月17日木曜日

C’est la vie 、どうしようもないこと

 





トンカは三人兄弟で、トンカの他に2匹のオス犬がいる。ゴールデンは大抵8匹ぐらいの赤ちゃんを産むらしいので、3匹は少ないらしいが、そこは父親の影響なのだろうか。


ムクムクとして真っ白なゴールデンレトリバーのママから生れた3匹は、大きさこそ違え、皆同じように全体に栗色をしていて、首から胸にかけてクリーム色で、表情がとても愛らしかった。トンカを迎えに行った時には、既に兄弟の一人は数日前に貰われて行ってしまっていた。トンカが一番小さくて、最後までママのおっぱいを飲んでいた様子だったが、先に貰われていった子は、トンカよりも二回りも大きかったそうだ。


その子の名前はCajou。カジュウと発音し、フランス語でカシュナッツを意味する。毛色がカシュナッツのようだからと名付けたのだろうが、なかなかどうしてお洒落で、気が利いていると思ったものだった。


ところが、そのカジュウの飼い主が、自分の手に負えないと地元のSPA、動物保護団体に引き渡したと、末娘バッタが、友達である、トンカのママ、ウシュカの飼い主のお孫さんから聞いてきた。


信じがたい思いがした。トンカの兄弟のことは、時々思い出しては、元気にしているかと思っていたのだが、まさか飼育放棄されているとは!何とも身勝手な話ではないか。考えようによっては、野良犬として外に放り出すよりは、SPAに連れて行って、専門家の手に委ねることは悪くないのかもしれない。別の飼い主との出会いだって、これからないとは言えない。


しかし、である。


怒りと同時に、何とかできないものかと切なくも思った。トンカと同じ顔をして、恐らくトンカと同じようにカンガルー跳びをし、いたずらをし、やんちゃなカジュウが、さみしい思いをしていると思ったら、居ても立っても居られなかった。


それで、ウシュカの家では引き取ってあげられないのかしら。


末娘バッタが、無理らしいよ、と言う。友達のおばあちゃん、つまりウシュカの飼い主が、「C’est la vie.」と呟いたらしい。それが定め、どうしようもない、といったところか。しょうがないことなのよ、ということだろう。


我が家でカジュウを引き取ることを思う。トンカは大喜びするだろう。でも、我が家で2匹の元気なカンガルーを飼うことは、どうなのだろうか。さて、さて。


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2023年8月15日火曜日

君の虜

 





トンカに出会うまでは、動物が笑った写真を見ても、新生児が笑った写真の様に思っていた。いわゆる天使の笑顔であり、筋肉の動きがなせる業なのだが、ママやパパは我が子が、おじいちゃんやおばあちゃんは我が孫が微笑んだと、大はしゃぎするのである。


でも、トンカとの生活を始めてから、自分の考えがなんと浅はかであったのかと、トンカの様子をつぶさに見ることで、驚き、そして大いに反省したのであった。


トンカは溜息をつく。こんなに晴れているのに、外に遊びに行かないなんて、と、ソファーに寄りかかり、鼻をガラスにくっつける様に窓の外を見ながら、ふーっと鼻から音を出す。


朝の散歩に行こうとドアを開けた時、空から銀の粒がしきりに降っていて地面を濡らしている様子を見て、ドアぎりぎりのところで踏みとどまり、外に出ようとしない。先に出て、「トンカ、来い」と声を掛けても、この雨の中を?と言わんばかりに、空を恨めしそうに見上げて動こうとしない。


バッタ達が週末に帰って来ると、大いにはしゃいで、ソファーにくっついて寝そべり、満足そうな顔をする。長女バッタや末娘バッタが、ヨガをするともなれば、一緒に自分もヨガのポーズを取ろうとする。


PCを前に仕事を開始すると、一挙手一投足を見逃すまいと視覚、嗅覚、聴覚を総動員し見張っており、ふっと携帯でも見ようものなら、休憩なのかとばかりに音もなく駆け寄り、鼻を膝に押し付けてくる。


大好物のさくらんぼやミラベルを好きなだけ食べた後は、恐らく藤原道長公が「この世をば」と詠んだであろう時の、これ以上にない満悦の様子でごろりと横になる。


散歩のときに、友達と追いかけっこをしたり、鹿に出会ったりと、森を好きなだけ駆け回った後は、帰ってくるとひんやりとしたフローリングで熱くなった身体を冷やしながら、目を閉じながら鼻歌でも歌うかのような表情をしている。


例を挙げたらきりがない。時々、熾火のように瞳の奥を煌めかせて、まんじりともせずに見つめられていることに気が付く。嗚呼、そんな瞳で見つめられたら、心臓がばくばくして、正に恋に落ちてしまうよ。


いや、既に、すっかり、君の虜、か。



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2023年8月13日日曜日

千載一遇

 






夜じゅう雨音が絶え間なかった翌朝、空の壮大さを誇示するかのように頭上でたなびく鱗雲が、朝の光を浴びて薄桃色に染まっていた。こういう時に限って、携帯を持っておらず、心のシャッターを切る。


その日は一日中、晴れ間が出てくるようで、急に薄暗くなったり、雨が静かに降ってきたりと、不安定な空模様だった。それでも、いつものように夕方になると相棒のトンカと一緒に森に繰り出す。真夏とは思えない天候ながら、それでも蒸し暑さが一瞬ぶり返したようで、長袖で歩くと、汗がじっとりと出てきてしまう、そんな日だった。


こんな日は、鹿たちはどうしているのだろうか。ところどころで出現している泥濘に足を取られないように気を付けながら、鹿の姿が見えないかと木々の間に目を走らせて歩いて行った。トンカも蒸し暑さは苦手の様で、時々珍しく地べたに腹ばいになって、ひんやりとした土の感触を楽しんでいるかのように、相棒が来るのを待っていた。


このところの雨で、巨大な白いマッシュルームが道端に出現していたが、さすがのトンカも匂いを一度嗅いだきりで、目もくれなくなっていた。変わった種類の茸を見つけると、ついカメラを向けてしまうのは、昔取った杵柄といえば聞こえは良いが、単なるカメラ小僧の習性。出会いはシャッターチャンス、それが信条なのだから、仕方あるまい。


そんなこんなで、汗をかきながらも、時々立ち止まっては写真を撮り、のんびりと森を歩いていたところ、先日小鹿と出くわした場所に差し掛かった。と、目の前の道のど真ん中に、にょきっと生えている茸が目に飛び込んできた。


むむむ。これは、まさか。


手に取ってみると、身がしっかりとしていて手ごたえがある。鼻に持っていくと、何とも言えない芳しい香りが勢いよく頭脳を直撃し、大いに度肝を抜かれてしまった。こ、これこそが、あのセップ様ではあるまいか。


バカンスの真っ最中で、森には人っ子一人いない。だからなのだろうか。まさか道の真ん中に、幻のセップ様がおわしますとは思いもよらず、これこそ千載一遇の出会い。ありがたし。


素人は無暗に森で採った茸を食すべからず、なんていうことは、百も承知であるが、この香りと、そしてむっちりとした重みは、本物でせう。間違う筈はあるまい。本能がそう伝えている。ふっふっふ。



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