リズミカルな車輪の音と揺れに身体を預け、物思いに耽っていた明日香はいつの間にか寝ていたのだろうか。気が付くと、さっきまでの軽快な音も揺れもなく、車内はひっそりとしている。先程までは誰もいなかった相席には、男が一人、雨の匂いをまとって佇んでいた。慌てて窓の外を見やるが、夏休みになったばかりの空はあくまで青く、真っ白な入道雲がまばゆいばかり。もう一度男を見やると、確かに小ざっぱりと刈られた頭や、ワイシャツの肩も濡れてはいない。それでも明日香には、男から雨の匂いが感じられるとの感覚が確かにあった。電車が改めて揺れ始める。それと同時に、カサカサと車輪のリズムと一緒に音が重なる。男は花束を持っていて、電車が揺れる度に、車体に預けた男の身体と手にした花束を包んだラッピングペーパーとが音を醸し出していた。明日香は雨の匂いが、男からではなく、男が手にしていた花束からしていることに漸く気が付いた。そして、久しぶりに幼い時の夏の日を思い出していた。
明日香は庭で遊ぶことが大好きな女の子だった。そして花びらを集めて、色水を作って絵を描く遊びに夢中になった時があった。つつじ、朝顔、ホウセンカ、サルビア、つゆ草、なんでも目につく花は試してみた。そんな時、庭の片隅にひっそりとしている、明日香の肩ぐらいある低木に目がいくようになった。黄緑の葉がどんどん大きくなっていくのに、それにつれて形を見せてきた花の蕾は大きくなっても、ちっとも色付かない。一体、どんな色になるのか。そして早く色水を作って絵を描きたいと思って、毎日その低木の下にしゃがんでは夕暮れ時まで過ごすことが多くなった。
そんなある日、やはりいつものように、庭の片隅の低木の下にしゃがんで、青い空を睨むように、いくつもある蕾から沢山の花びらが舞うように咲き始めながらも、ちっとも色が付かない花の輪を恨めしく思っていると、庭に知らない男がいることに気が付いた。その男は明日香の方を見て、にっこりとしている。正確には、男は明日香ではなく、明日香がしゃがんでいる傍の低木を見ていた。その証拠に、ゆっくりと近づいてくると、その色付かない大きな花の輪に、顔をそっと寄せ、何か呟いている。そして、男は口づけをしていた。明日香はドキドキしてきて、どうしようもなかった。それでも、見つかった時の怖さよりも、男がいくつもある花の輪一つ一つに、ゆっくりと声を掛けていく様子にうっとりとしてしまっていた。丁寧に言葉をかけ、口づけをしていく。そうして、明日香のすぐ近くの花に男の唇が寄せられたと思った瞬間、男は明日香の頭上にも、優しく口づけをしていた。男は明日香を花の輪と思ったのだろうか。次々に声を掛けて、そうして花の輪すべてに口づけをした後で、男は姿を消していた。
どれだけそこにいただろう。明日香はあの時、花たちの幸せそうな語らいに一緒になって混ざっていたような気がする。夕飯に呼ばれて漸く立ち上がると、夕日を浴びて花たちが一段と輪を大きくしたように思われ、もう一度良く見ると今度は驚いて立ちすくんでしまった。あれだけ焦がれていた花の色が鮮やかに付きはじめていた。急に怖くなって、台所の母のところに飛んで行って泣きながら聞いてしまった。「ママっ!明日香、今、何色しているっ?」母はびっくりした様子もなく、しっかりと抱きしめてくれて、ゆっくりと、でもしっかりとした声で「明日香は、明日香色しているよ。」と教えてくれた。あの時の安堵感。母親の柔らかい胸の中で、愛されていることを強烈に感じ、信頼されている喜びを味わった一瞬だと思われる。考えてみれば、あれから何度自分を見失うことがあっても、あの時の母の言葉、「明日香は明日香色」を思い出し、勇気をもらって立ち直ってきたのだと思う。
雨の匂いで過去の思い出から現実に引き戻される。相席の男が立ち上がったのだ。男は次の駅で出ていくのだろうか。車輪の軽快な音がゆるやかになり、やがて止まる。扉に向かった男は持っていた花束を大きく明日香の膝の上に投げる。声を出す前に、外に出た男の後ろで扉は締まり、先程と同じようにゆっくりと車輪の音がなり始め、軽快にスピードを上げていく。明日香の膝には雨の匂いのする紅色の紫陽花。
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