雨が降った後の濡れた小道を小走りに進みながら、冷気の中の緑の香ばしさに思わず微笑む。慣れっこになった暗闇の朝。ポケットに手をいれるが、いつもある筈の手袋が見つからない。しかも悪いことに、片方だけがない。
両方ないなら、どこかに置いてきたのだろうと思える。片方あるということは、いつものようにポケットに忍ばせていた筈なのに、一つだけない、ということになる。そして、恐らく、一つだけ入れ忘れたのではなく、一つだけ何かの弾みでポケットから落ちてしまった、ということになる。
前日の夜を思い出す。バスの後部座席に座り、携帯を見ていた。携帯でメッセージを書くときは、必ず右手の手袋を外す。そうか、あの時は手袋を使っていなかったのか。やけにバスが暑かったことを思い出す。ひょっとしたら、バスの中で手袋を脱いだのだろうか。
バス停からの帰りはどうだろう。夜遅く、バスの中とは違い、寒かったに違いない。手袋をしていた筈。でも、走って帰ったから、手袋はしなかったかもしれない。
記憶はなんて曖昧なのだろう。
昨日走った小道を逆にたどっていることになるが、どこにも手袋は落ちていない。
バスの通路に落ちた片手の手袋が目に浮かぶ。きっと、ポケットから携帯を取る時に、一緒に手袋も外に出て、落ちてしまったのだろう。前日にメトロのプラットフォームに落ちていた毛糸の黒い片手の手袋が思い出される。ひどく気の毒に思ったが、あれは何かの予兆だったのか。
自分の手にぴったりとはまる茶色の手袋は、もう体の一部のように感じていたし、なくすことなんてありえないし、受け入れることなんて、とてもできない。
仕事をしている間は、手袋をしないので、思考を過ぎることもなかったが、夜、外に出て、冷たい風に吹かれ、手袋のことを思い出す。メトロのプラットフォームで我が家に電話を入れる。長女バッタが出てくれるが、とても聞こえにくく、辛うじて、ママの手袋は見なかった、との返事をもらう。
そんなに失いたくないなら、いつでも手につけていればいいのだろうが、そうもいくまい。
失いたくないもの。
それは腕に抱えていても、いつかはすっと消えてしまうものなのだろうか。
我が家に走り帰り、外套を掛けておくハンガーの下をのぞく。
バッタ達のたくさんの外套の下はスポーツの鞄やサックが積まれていて、その中に、ひっそりと片方の手袋を見つける。
思わず大声をあげ、バッタ達に報告。
何の変哲もない茶色の手袋。それに対する思いは誰も知るまい。
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