どんよりとした空を見上げる。
惨めで、悲しかった。
小学生の時の思い出が甦る。
詩の授業で、幾つかの作品を書いて、
授業参観で一人一人が発表。
年子で双子、三つ子のような団子きょうだいを抱える母は、
いつだって駆け足。
そのことを良く知っていらした先生は、
授業の終わりごろに母が来たときを見計らって、私を改めて指名してくださったたに違いない。
その前に既に二つ読んでいたが、
改めて一つ読むように、イラストが描かれた手書きのスライドがスクリーンに映る。
題名は「うわさ」
お習字の教室で、別の学年の子達がおしゃべりに余念がなく、賑やかにしている。
と、どうやら私の名前が聞こえてくる。彼女達の担任の先生が、放送委員の私のアナウンスが早過ぎて分からない、と批判していた、とか、そんなことだったのではないか。
勿論、詩だから、説明は書かない。
うわさを耳にして、
気持ちがしゅん、となって、
そこに一人だけ置いてきぼりになった、
そんな不思議な感覚を書こうとした。
実は、もう一つの詩の題名は「帰り道」
いつもの帰り道なのに、いつもと違って足が駆け出す。
だって、今日は、お父さんとお母さんが帰ってくる日だから、
とか、そんな甘ったるいもの。
駆け出すテンポを考えて、軽く書いたつもり。
でも先生は、母の前では「うわさ」をお選びになった。
子供らしく単純で快活な「帰り道」よりも、
深い心情を詠んだ(いや、そこまでの作品ではないか)ものをお選びになったのであろうか。
私の直情型の性格は、きっと、母譲りなのだろう。
あの時、授業が終わると、母が後ろからさっと寄ってきた。
恐い顔をして、あの作品はなんなのだ、と。
あんなものを書いているのか、と。
異様な親子の雰囲気を察してか、
別のお母さんが、とりなすように、とても明るく楽しい、もう一つの詩のことを口にする。
当然ながら、母にはそんな声は聞こえていない。
保護者会を終えて、夕方になって帰ってきた母から、
改めて、詩のことで話があった。
「詩」とは、楽しいこと、嬉しいこと、美しいこと、を詠むものであって、
読み手がそれを読んで、楽しい気持ちにならねばならない、と。
あの時、もう一つの詩を選んでくれなかった先生を、どんなに恨めしく思ったことだろう。
そうして、母の教えに、疑問を覚えながらも、私は頷くしか方がなかった。
母に反抗して、得をした例はない。
母に怒られることは長い地獄の時間を約束していた。
今なら分かる。
母は、あの時、心が凍りついたに違いない。
自分では守りきれない子供達。
悲しさに打ちひしがれても、
いつも側にいるわけでもないし、抱いてあげることはできない。
悲しい思いを詩にしてしまえば、
その思いは却って一人歩きして、堂々と当たり前のように闊歩してしまう。
感情に言葉をつけてしまえば、
その言葉が勝手に重みを持って圧し掛かってきてしまう。
その悪のスパイラルから、我が子を守りたかったのであろう。
以前、末娘バッタが学校の隅で一人で泣いていたよ、
とわざわざ会社のメールに知らせてきてくれたお母さんがいた。
心が凍りついた。
そうして、私がしたことは、
帰って先ず、末娘バッタを呼びつけて、
学校では泣くな、
つまらないことでは泣くな、
泣くときは、
親が死んだときだけにしなさい、
と、
泣きべそだった私に母が言った言葉をそっくり口にしていた。
母の教えは間違っていない。
楽しいことを、嬉しいことを、心浮き立つことを言葉にしよう。
楽しさが、嬉しさが、心浮き立つばかりに湧き上がってくるだろう。
見えないものも、見えてくる。
べたぼっちゃ。
べたぼっちゃ。
台湾の4歳になる姪っ子が歌っていたフレーズ。
一体、何語なの?と聞いたら、子供達がわっと笑って、
バッタ達が、ママ、英語だよ、と。
え?あ?
あっ! Better watch out!
You better watch
out!
Santa Claus
is coming to town.
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