ヘンデルのバイオリンソナタ第4番。
第1楽章から第4楽章まで、次に会うまでに暗譜してきて欲しいとバイオリンの師、マリに言われると、息子バッタは黙ってしまった。
夏休みが明けるとユネスコ、そしてローマでのコンサートに向けての練習、そして、今度はノエルのコンサートに向けての練習となり、なかなか自分の曲を仕上げる時間が少なかったことは事実。それでも、この第4番は4楽章あるとはいえ9月から持ち続けている。あまり長い間同じ曲を持っていると、気持ちの上でも弛んでしまうので、やる気を持続させるためにも、テンポ良く切り上げることも大切との信念を持っている師の言葉に、バカンスの二週間で仕上げて欲しいとの期待と希望が込められていることが感じられた。
それに対する沈黙。
これが少し前なら、喝を入れるところだが、我慢して黙っていた。それにしても、せっかくこれまでやる気を見せていたのに、一体どうしたのだろう。最近、確かに練習している姿を見なくなったかもしれない。それよりも、数日前に声を掛けたら、ママも練習していないね、と返事があったことを思い出していた。こっそりと溜息をつく。
どのぐらいの期間があれば、暗譜できると思うの?
マリは別の方向から質問をしてきた。
分からない。
これまた覇気のない返事。
ねえ、ヘンデルが嫌なの?
ヘンデルのソナタを暗譜したくないだけなの?
マリの質問も分かる。彼女にしてみたら、今まで暗譜にかけては全く問題もなかった息子バッタが、ぐずぐずとしていることが腑に落ちなかったのだろう。
バカンス中、パパのところだから。
蚊の鳴くような声が聞こえる。
ハッとする。
なるほどね。パパのところだと、練習できないのね。
マリが頷く。
今回は末娘バッタが練習日連続200日を目指しているから、バイオリンを持って行くこと、パリのアパートでも練習はさせてもらえること、など、ゆっくりと付け加え、息子バッタにもパパのところでも十分練習できる環境にあることを伝える。
パパに聞かせたくないんだよ。聞いて欲しくない。
耳を疑う。
パパは毎日家にいるわけではないから、やろうと思えば練習をする時間があることを伝える。
パピー、マミーにも聞かせたくない。
はっきりとした答えが返ってくる。
分かるわ。
マリが言う。音楽は表現だから、聞いて欲しくないこともあると思うわ。こればかりは、私にはどうしようもない。
スケールの練習ならどう?ポジション移動の練習と合わせてやるのよ。こういった技術的な練習なら、表現とは違うから、聞かれても構わないんじゃないかな。
スケールとポジション移動?
そう。どう?それだけを練習するのよ。とってもいい練習になると思うわ。
やってみる。
そう頷く息子バッタの後姿を見つめながら、そういったことに思い至らなかった自分を情けなく思う。そうだったのか。
音楽は表現。聞いて欲しくない相手、聞いて欲しい相手、伝えたい相手、伝えたくない相手があるのか。
そんなことより、彼が父親を伝えたくない相手としていることに、身につまされる。
つい先日、サッカーのリーグ戦があるからと、父親が誘い、一緒に観戦し、夜中に送ってもらったばかりじゃないか。
父親に知られたくない世界、ということなのか。
冬至の太陽が窓の向こうで木々にゆらめいている。
また一回り大きくなったように思われる息子バッタの背を改めて見つめ直す。
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