「今晩は。午前中にメールをいただいた者ですが。」
相手の名前をしっかりと確認する前に、「あら!お電話ありがとうございます。はい、今朝メールを出させて貰いました。」と返事をしていた。脳の片隅で、名前を復唱しながら。
その日、早朝に5人程にメールを送っており、そのうちの一人とは既に何度かメールの交換をし、翌週会う手筈になりながら、時間や場所が決められないでいた。友人の知り合い、といった気安さから、年齢的に同じだろうし、この業界の人ならば、むしろ形式ばった書き方よりも単純明快さを好むであろうと、若干略式に返事をしてしまったことに、相手はぎょっとし、余り良い感情を抱かずに、メールの返事もなくなってしまったのだろうかと反省していた。そんな矢先であったことから、ほっとすると同時に、感謝の思いで一杯であった。
「ご都合よければ、明日にもどうかと思いまして。」
来週ではなかったのか。
「いやね、あなたの住所に目が行きまして。こんなことを申すのも変な話なのですが、叔母がその近くの病院に入院していまして、週に一回は見舞いに行っているのですが、ちょうど明日がその日なのですよ。」
実は、そこからが歯切れが悪い。叔母さんは脳腫瘍を患っていて末期。放射線治療をしていたが、今は化学療法を受けており、時々見舞いに行っても寝ていて会えない時がある。大抵、気分転換に病院の近くにあるブラッスリーでお昼をとっているが、時間は叔母さんの容態次第で変わらざるをえない。そんな状況でよければ、明日のお昼に、そのブラッスリーで会わないか、といったことであった。また、どうやら幼い子供がいるらしく、ヌヌ(ベビーシッター)の都合では、そもそも見舞いにさえも来ることができないかもしれない、と告げられる。そうして、
「いや、日本の方ですよね。分かっていますよ。時間厳守だってこと。でも、こういった状況なので、ご理解いただきいのですが。」
非常に理解しがたくなる。別の日の方が都合が良いのではないだろうか。無理に明日、どうしても会って話がしたいわけでもない。こんなややこしい家庭の内情を見ず知らずの他人に知らせるとは、妙なこと。
それでも、せっかくの申し入れ。仕事の合間をぬって出てくるのであろう。その時に、ランチをしがてら、誰かに会うといった時間の使い方を考えているのかもしれない。
大急ぎで明日のランチの約束をし、電話を切る。受けた電話番号を登録しようと、友人が送ってくれた連絡先リストをチェックしようとPCに向かう。と、その本人からメールが入っている。
「来週月曜のランチにしませんか。」
妙なこと。
急に叔母さんの具合が悪くなったのか。時間が曖昧なビジネスランチは止めようと思ったのか。奇妙に思いつつも、取りあえず連絡先をチェック。不思議なことに、先程の電話番号と、友人が送ってくれた連絡先とが一致しない。携帯番号を二つ持っているのか。そう思って名前を心で復唱すると、なんだかひっかかりを感じる。ぎょっとして、連絡先リストにざっと目を通す。
私の早とちりと思い込みの激しさは今に始まったことではない。危機一髪。メールでやり取りしていた相手と先程の電話の主は全く違う人物。しかも、友人からは、昨年二月の時点で新会社を設立する予定にあり、アジアの顧客をターゲットにしていると聞いていたので、ぜひ会いたい相手であった。その相手と分かっていたら、緊張してまともな話もできなかったろうが、勘違いのお蔭で、非常にリラックスして話ができ、会う約束も取り付けられることが出来、笑ってしまう。
翌日、ヌヌの問題があればSMSで連絡があるはずだが、それもなく、お昼の時間になっても特に先方からの連絡はない。13時半から14時半の間、と言われていたので、13時半を目指して待ち合わせのブラッスリーに行ってみる。もう一人、遅れてくるからと二人分の席を取り、新聞に目をやり待っている。そういった客に慣れているのか、気持ちの良い程に放っておいてもらえる。14時20分にメールが入る。14時半にブラッスリーで、と。一時間ゆっくりとくまなく新聞を読めたことは悪くない。こういう時間の使い方もあろうと納得する。
そうして漸く会えた相手は、50代になろうか、ラフな格好。自分の会社なのだから、そう畏まった服装をする必要もあるまいし、しかも入院患者の見舞いを兼ねているのだから、と思う。やや寂しげな、人生の辛さを背負っているような、しかし非常に紳士的な表情が印象的。
叔母さんの容態はすこぶる良くなく、ずっと寝たきりで目を覚ますことがなかったという。午後にも、もう一度主治医に会うことになっているらしい。元気にならなくては、と白ワインを一杯注文する。
そうして、彼が話したことによれば、昨年二月の時点で会社設立を願っていたが、肝心の資金がまとまらず、アイディアは良いと言われ続けるも、暗礁に乗り上げた状態にあるらしい。前の職場では、親会社が赤字に陥り、一部事業の撤退となり、彼の部隊もあっけなく売却の憂き目にあったらしい。ある日突然お払い箱となり、毎日忙しく世界の顧客相手に電話をしていたのに、その必要がなくなる。唯一、赤ちゃんの誕生が明るい話題であるが、今や仕事場からミルクやおむつを買って欲しいと奥さんからの伝言が来ると、なんと虚しいことか、とこぼす。
去年までは同僚も部下も大勢が年末の挨拶メールをくれたが、今年は片手にも満たないよ。そう寂しげに微笑む。
これまでの実績があるが、如何せん高給取りであったし、年齢からも他の職場は見つかるまい、とし、起業するしかない、との思いに至ったらしい。
「日本に行ったかい?日本の昔のお客さんに会いに行くべきだよ。彼らがきっと君の仕事を見つけてくれるよ。何らかの糸口が見つかるよ。」
前の職場に対して、契約違反だとし、労働審判所に訴えているらしい。時間はかかろうが、いつかは勝利し、それなりのまとまったお金が入るだろう、と言う。でも、お金の問題じゃない、そう彼の目は訴えている。
時間を作ってくれたこと、話をしてもらえたことに感謝をし、彼のビジネスプランが成功するよう、ファミリーオフィスとの良い出会いがあるようにと伝える。
「これ以上最悪にはなれないから、あとは良くなるしかないよ。」と寂しげな返事が返ってくる。
外は雨。
主治医に会ってくるからと病院に向かう彼が傘を差しだしてくれる。
丁度ここのお店で買い物があるので、と伝え、改めて感謝の言葉を述べる。
「何かあれば連絡を」そう言って、手が差し伸べられる。
しっかりと目を見つめ、握り返す。
傘が遠ざかると、ゆっくりとスパイスの専門店のドアを開ける。
トンカ豆を買おう。アマゾンでは幸福をもたらすとされ、香りは優しさに満ち、明るい気分にさせてくれる。今年はトンカ豆の香りのマジパン入りガトーオショコラに挑戦しようか。
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