一通り仕事の話を終えてお店を出る時に、ふと目が留まる。落ち着いた藍色に思わず見とれてしまう。
「ああ、このコーヒーカップ、対ではないので皆さん余りお求めにならないのですよ。」
逆ではないか。対でないからいいのじゃないか。
「対になるように注文しないと。。。」そんなお店の人の声が聞こえるが、それには答えずに思わず手にしてしまう。この海の波の文様がまた素晴らしいじゃないか。
ねえ、年を取ったら、朝ご飯に何を食べたがると思う?
「そんなことを急に言われても。」
なんだって男って想像力に乏しいんだろう。例え話がちっともできない息子バッタをちらりと思う。ほら、80歳になったら朝に何を食べたいな、と思うと思う?
「80歳?考えられないよ。」
分かった、分かった。じゃあ70歳でいいわ。
「70歳?」
いいわよ。じゃあ60歳!
「う~ん。誰と一緒かによるよ。」
視線が眩しい。
それって何かメッセージある?どきりとしながらも、全く意に介さない様子で、遭難して疲れ果てた後、先ずは口にしたいものはとの質問に変えてみる。海外に住んでいる人が年月を経て最終的には母国の食事を恋しがるとのテーマが念頭にあった。
「珈琲かな。」
そんな会話が甦る。
朝起きて、仕事に行く前に、オフィスで、と何度も珈琲を飲むであろう姿を想像し、海好きには波の文様はぴったりではないかと思ってしまう。真ん丸ではない受け皿も気に入っていた。シンメトリックではない美しさ。手にもった時の重量感も心地よい。珈琲の奥深いローストした味が香り立ってくるじゃないか。
喜びに満ちた笑顔が想像され心が騒ぐ。
いや、待て待て。
このところちっとも会えていない別の顔が頭を過ぎる。似合うだろうとプレゼントしたスカーフ、海外から注文したセーター、そういった贈り物を身に着けた姿を一度も見ていない。いつしか無難なプレゼントしか贈らなくなってしまったが、このコーヒーカップはどうだろう。随分前にオフィスに立ち寄った際、使っていたティーカップが思い出された。オフィスできっと気に入って使ってもらえるのではないだろうか。上品な藍色は好みに違いない。アメリカンよりもエスプレッソを好むタイプには丁度よいサイズ。真っ白なホイップクリームをのせたウィンナコーヒーにもぴったり。
嬉しそうに微笑む様子にこちらまで嬉しくなる。
だが、珈琲と言えば、もう一人。
幼い頃から美味しい珈琲の淹れ方について薀蓄を語ってくれた人物。カップを温めることは常識だったが、どの程度の量をカップに入れるのかといったことに煩かった。喜んでもらおうと懸命に工夫した昔が思い出される。あんなに煩くしなくても、と思ったものだが、確かにあんまり量が入っていると美味しそうには感じられない。また少な過ぎても駄目。今では末娘バッタに煩く注文している自分に呆れているが、この美学は十分納得のいくものと思っている。ただ、ちょっとサイズが小さ過ぎまいか。
珈琲専門家がもう一人いるが、ゆったりと珈琲カップを愛でつつ味わうなんて時間的余裕が未だなさそうである。
そんな思いに耽っていると、値段を見て迷っていると思ったのか、「良かったら、取って置きますよ。」と声が掛かって我に返る。
まさか贈る相手を吟味していたとも言えず、ぜひお願いしますと、にっこりと返事をする。そうして、本当に手に入ったらどうしようか、どう渡そうか、とどきまぎしてしまう。
暫くは心ときめく時を楽しもうか。
にほんブログ村
↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています
クッカバラさん、ご自分用にされたら如何でしょう。珈琲カップさんも喜んでくれそうだけど。。。でもクスリ、何故か私と似ています。ステキな物を見つけると、誰にプレゼントしようかな、とワクワクしちゃうところ。
返信削除あかうなさん、コメントありがとうございます。
返信削除ね、気持ち、分かっていただけますよね。ついつい、誰かを喜ばせたくなっちゃう。この素敵な出会いを分かち合いたくなっちゃう。
あ、でも、このコーヒーカップ、まだ取りに行っていないのです。
恋に落ちるのって一瞬、そして冷めるのも、、、。
いえいえ、ぜひに取りに行かないと。
ではでは、またどうぞコメントをお残しください。楽しみにしています。