2016年4月16日土曜日

春の宵








「7冊目修了証書の曲は何がいいの?」
バイオリンの教師マリに問われ、戸惑っている息子バッタ。

ぼそぼそとつぶやく。「未だ、第三楽章が終わっていないけど。」

マリは快活に「ああ、あれは後からもう一度やってみるといいって言ったじゃない。取り敢えずは暗譜して弾けるのだもの。さあ、どの曲が一番好きだったのかしら。」

たった今、彼が弾いた曲なんて、隠れた情熱を引き出すかの様な弾きっぷりで悪くなかった。
ちょっとした沈黙が続く。

彼の代わりに答えたい衝動を抑えて様子を見守っていると、「第三楽章が好きなんです。ティラリラリが未だに上手く弾けないけど。」笑顔ではっきりと息子バッタが告げる。

分かっていた。
バッハのバイオリン協奏曲第一番イ短調、第三楽章。
数年前に台湾に遊びに行った時、彼の従兄が練習していた曲。
あの時、俺の曲を聴け、と言わんばかりに弾き上げた彼の先生に惚れたのか、泣きながら練習していた従兄の弾き方に惚れたのか、従兄が何度も聴いていたCDに惚れたのか。

完璧を目指す息子バッタは、思い描く音が出せないと悔しがって練習をすれば良いのに、悔しがってそこから脱出できずにいた。それでも、時々思い出したように他の曲の練習の時に、旋律を弾いていることを知っていた。

練習をしないから脱出できないので、そこで長いこと足踏みをしているので、飽きてこないかと心配したマリが、別の曲に進むことを促した経緯があった。それをまた、弾きたいと、練習をしたいと、自分の終了の曲にしたいと告げる息子バッタ。

危ういが、彼のティーンの危機は脱出したかな、と手ごたえを感じる。
このところ、毎日練習をしていることを知っている。

バッハのバイオリン協奏曲第一番イ短調、第三楽章。
彼が、自分の意思で立ち止まって、改めて手にした曲。

夏にはこの曲をポケットに、君は飛び立っていくのか。

桜の花びらが白く浮かぶ春の宵
風がやさしく甘い香りを運ぶ







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