男は起きてから何度目かのため息をついた。昨日までは、自分でも突拍子もないと思っていたアイディアに賛同し、背中をどんと押して応援してくれるかのようににぎやかに囀っていた小鳥たちも、今朝は未だ一羽も姿を見せていなかった。
賽は投げられた。男は一人つぶやいた。今更思い巡らしても、どうにもならなかった。後は運を天に任せるしかない。無神論者と粋がっていた筈なのに、こんな時に天の采配を気に掛けるなど馬鹿げたことではないか。男は自嘲気味に笑った。人は、恋をすると見境がつかなくなるとはよく言ったものだ。
これが恋なのだろうか。しばらく遠ざかっていて、鍵盤に触れていない手をじっと見つめる。ショパンの夜想曲の幾つもの旋律が先ほどから頭を離れない。ショパンを弾きたくなるなんて、かなり重症だな、と失笑する。
人は恋に恋をする。老いらくの恋と笑われてもいいではないか。これまでの人生、相手に不自由したことはなかった。高校時代、ラグビーに夢中になっていた頃、ロッカーには恋文や手作りビスケットが忍ばせてあったものだった。大学はオックスフォードで、音楽学を専攻した。ピアノを弾けるというだけで、面白い程に恋人候補が現われ、何人かとは深い付き合いもしたが、今では名前はおろか、顔を思い出すことも難しい程だった。卒業後、知り合いから引っ張られる格好で金融界に入り、面白いように稼げ、飛ぶ鳥を落とす勢いで羽振りも良かった時代。同じころ入社した足首がきゅっと細い女性と、資産ポートフォリオの運用パフォーマンスを競っているうちに、気が付いたら深い仲となり、皆に祝福される格好で婚姻届けを出した、あの輝かしい日々。やり手の彼女は上昇志向が強く、自分よりも稼げる若いトレーダーとひそかに会っていることが発覚し、その時はお互いに話し合ってなんとか元の鞘に収まったが、奔放な彼女の性格を変えることはできず、今度は若い後輩と頻繁に出張し始めるようになり、その頃には彼女への思いはすっかり冷めてしまっていた。離婚などと騒げば、弁護士代、裁判費用だって馬鹿にならないし、ヘタをすると慰謝料まで取られかねない。ここは大人になって、資産分与をうまく相談し、時間を掛けて別れる方が得策と思われた。その頃、彼女が出張と称して不在にしている時に、ガラス越しに中庭の向こう側の住人と知り合い、懇ろな仲になったこともあった。スウェーデン出身のブロンドで長身の彼女は、グラマラスでプロポーションも良く、お互いに割り切った関係で随分と楽しい時間を過ごしたものだった。
男は思いを振り切るように、思い切りよく立ち上がった。その拍子にサイフォンがカタカタと音を立て、もうすっかり湯気が出ていないリモージュの珈琲カップからは、マンデリンの芳醇な香りがこぼれ落ちた。何を動揺しているんだ。男は自分を鼓舞するかのように、一息に珈琲を飲み干すと、その濃厚な味わいに初めて目覚めたかのような顔をした。
実のところ、もてはやされていたたのは、もう15年も前のことだった。リーマンショックと重なるかのように、仕事が以前のようには上手くいかなくなり、常にトップのパフォーマンスを誇っていたのがあっけなく新卒の若手に取って代わられ、業界自体がリストラの嵐にもまれると、解雇を言い渡された。その後は知り合いを頼って職を辛うじて得たが、長続きはせず、職を転々とすることになった。人間不信に陥り、誰もが敵の様に感じられ人付き合いが悪くなり、生活も荒んでいった。あれほど慎重にしていた離婚も、彼女の方から口にされ、気が付いたらきれいさっぱりと一人になっていた。当然のことながら、男の女性遍歴もストップしたままだった。
男はその時になって漸く気が付いたのであった。15年前に知り合った小柄な女性こそが、自分にとっての最後の幸運の女神だったと。旦那に出ていかれたばかりで、幼い子供たちを3人抱え、それでも眩しくなる程の生命感を溢れさせ、チャーミングな笑顔で、相手の懐にすっと入ってしまうような女性だった。出て行った旦那に子供が生まれるとかで、家族崩壊という精神的な決定打を受けたとし、いきなり掌を返したかのように連絡が途絶え、宙ぶらりんの格好で置き去りにされた思いだけが残ったものだった。どんなに連絡をしても返事がなく、男としても、そこまでして子供三人を連れた女性と一緒になる覚悟はなかったので、そのままにしてしまっていた。ところが、ここに来て、彼女を見つけないことには自分には幸せは再び巡ってこないのだと、半ば強迫観念のような思いに捕らわれたのだった。
人は時にそれを運命と呼ぶ。説明をしようにも、まったく論理的でなく、必然性などあるはずはないのに、それが唯一の道と思い込んでしまう。男にとって、15年前に出会い、四季が一巡するのを待たずに忽然と目の前から姿を消した小柄な女性こそが運命の人となってしまったのである。
男がそう思い込んでから、既に二年の月日が経っていた。それほどまでに慎重に事を運ぶことに拘っていた。相手に警戒心を与えないように再び近づき、そして、幸運の女神を引き寄せねばならなかったのだから。知り合った期間よりも長い時間を使って、自分の中で女性への思いを募らせていった。いつの間にか彼女はただの女性ではなく、女神のような存在に神聖化させてしまっていた。
珈琲を飲み干すと、ハンチング帽を手にし、きゅっと目深に被った。鳥たちが囀りに来ないのなら、囀っている鳥たちのいる場所に行こうではないか。賽は投げられたのだから、と男は再び呟いた。ダウンジャケットを着こむと、外に出た。弱々しいながらも曇り空から朝の日差しが降り注いでいて、あたかも男を祝福しているかのようだった。ハンチング帽の下で静かに微笑むと、ゆっくりと歩みを進めた。
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