2023年5月31日水曜日

女 其の肆 « 渦潮»

 





 彼女はおもむろに席を立って、戸棚からとっておきの珈琲豆の袋を出した。数年前に行ったブラジルでの珈琲が美味しくて、馥郁たる香りを楽しみながら、当時の思い出も蘇り、心豊かな時間が持てることからも、今でも購入する珈琲豆はできるだけ原産地をブラジルとしていた。珈琲の何が一番好きかと言えば、珈琲豆の密封された袋をハサミでじょきりと切った時に放たれる芳香ではないだろうか、そう彼女は思っていた。しっかりとローストされた珈琲豆は、香ばしく、深みがあり、重厚でいて爽快さを併せ持っている。


 香りをたっぷりと愉しんだところで、ミルにこんがりと煎られた豆を必要なだけ入れる。その時のカラカラという軽快な音に、彼女は知らずににんまりとする。適度に挽いた後、ミルの蓋を開けると、先ほどとは違った繊細な香りが放たれ、ブラジルでの日々が鮮やかに蘇るのだった。熱いお湯を少しかけて粉を優しく膨らませると、今度はアマゾンのジャングルを思わせる濃厚な香りが立つ。そうして、ゆっくりと静かに少しずつ珈琲ドリップにお湯を注ぎ、ぷくぷくと粉を膨らませながら珈琲を淹れていく。珈琲を淹れるまでのプロセスの楽しさは、ひょっとしたら恋人との出会いの楽しさに似ているかもしれない。ゆっくりと愛しみながら珈琲カップに口をつける。酸味と苦味のバランスというが、しっかりとローストされた香りと飲んだ後の爽やかさが秀逸で、味にキレがある珈琲こそが彼女にとって最高のものだった。


 彼女は幼い頃から既に珈琲の美味しい淹れ方についての蘊蓄に耳を傾け、時には厳しい指導を受けてきたのであった。カップを温めることは当たり前だったが、カップに入れる量についても指導者の母親は煩かった。喜んでもらおうと懸命に工夫した昔が思い出される。確かにカップの縁までたっぷりと入っていると美味しそうには感じられない。また少な過ぎても逆効果であった。せっかく心を込めて入れた珈琲を、美味しそうに感じられないと冷たく突き返された時の驚きと悲しみは忘れられない。相手に気持ちが伝わらないのは、相手に問題があるのではなく、自分の表現方法に問題がある、そのように幼い時から教えられてきた。


 彼女は昔のことを振り返りながら、頭を軽く左右に振って天を仰いだ。それは思い出の渦潮に巻き込まれそうになる時に、彼女がする癖だった。彼女は時々過去と現在の区別がつかない程に、過去のことを思って冷汗を流したり、焦ったり、深く後悔したり、辛くなって悶えたりするのであった。それは記憶が始まる小学生の頃のことから今に至るまでの全ての過去を対象としていて、突如ある時期の過去が痛みを伴ってまざまざと思い出されてしまうのであった。自分がいかに酷く、惨めで、情けない人間であると反省したところで、全く生産性なく、過去があっての今があるのだから、今を堂々と明るく歩こうではないか、そう思うことにしていた。だから、出来るだけ過去を振り返らないようにし、手遅れにならないうちに頭を振って過去の記憶を振りほどくのであった。


 なぜなら、過去とは点であり、線であって、線であり、面であり、独立した点として存在する過去などなく、ややもすると、ずるずると多くの物を引き出してしまうからだった。


 男との記憶はそれが単体で存在するのではなく、彼女は本能的に「あの頃」という括りで、全ての記憶を封印していたのであった。従い、男の記憶を掘り起こすことは「あの頃」を思い出すことに直結していた。そして男から手紙を受け取ってから、封印していた筈の「あの頃」の記憶が、氷が太陽の下で少しずつ溶けていくように、静かに、しかし確かに流れ出し始めたのであった。


 たとえば、珈琲の馥郁たる香りを楽しみながら、ふと男がフランスのカフェは味に奥行きがないと言ってはイタリアの濃いエスプレッソを好んでいたことを、思い出してしまうのであった。そして、記憶はそこで留まってくれずに、その当時のことを嫌が応でも思い起こされてしまうのであった。実のところ、男に対する思いはこれまで「無関心」であったのだが、今は苛立ちを感ぜずにはいられなかった。


 それでも、ゆっくりと珈琲を飲み干し、色々なことに思いを巡らし気持ちを落ち着けると、さて、と封筒から手紙を取り出したのであった。



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これまでの章 

男 其の壱  « 覚醒 »

女 其の壱 « 記憶の断片 »

男 其の弐 « 確信»

女 其の弐 « 記憶の選別 »

男 其の参 « 願望 »

女 其の参 « 真実 »

男 其の肆 « 再生»



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