2023年5月25日木曜日

女 其の壱 « 記憶の断片 »

 






 夕方の散歩から帰って来た時、彼女は郵便受けを確認する習慣がある。以前だったら、銀行からの口座取引明細書、ガス、電気、水、電話などの公共料金の支払い請求書、保険会社からの通知、ダイレクトメールなどの封筒が毎日のように入っていたものだった。最近はどこもかしこもペーパレスとなり、封書を受け取ることの方が稀になってきている。「Nobody loves you.」 高校時代に一年間留学したオーストラリアでお世話になったホストファーザーから、誰からの手紙も来ていない時に、半ばからかい気味に言われた言葉が彼女の耳に蘇った。


 スイートシクスティーン、16歳のあの頃、海外に留学することにとにかく憧れていた。高校一年の夏、米国に本拠地を置く世界各国で展開する交換留学プログラムに応募した際、留学希望先を3ヶ国まで記入する欄があった。第一希望には迷わずに米国と明記し、第二希望はオーストラリアとしたのだった。第三希望をどこの国にしたのか、今となっては覚えていない。留学生の9割が米国に留学していた時代で、もしも合格できれば一年休学し、高校2年の夏に米国に留学する心積もりだった。あの時自分の運命は、メジャーで勝負というよりはオリジナル性で勝負する道に大きく舵が切られたのだと、彼女は過去を振り返って妙に納得することがある。


 そしてその日も、門を開けて玄関ポーチに足を踏み入れ、郵便受けを開けるまでの数秒間、彼女は16歳になった12月の誕生日のことを思い出していた。その日は土曜日で、朝早くに家の呼び鈴が珍しく鳴った。何だろうと出てみると、ドアの向こうには久しぶりに会う小学校時代の同級生が立っていた。恥ずかしいのか、走ってきたからか、すっかりがっちりとした体格になりながらも、幼い時と同じように顔を紅潮させ、口早に「郵便です。」と大きな分厚い封書を差し出したのだった。青年が郵便配達のアルバイトをしていたとは知らなかった。「ありがとう。」と受け取りながら封書に目をやると、そこに彼女は自分の名前を見たのだった。差出人を確認するまでもなく、封書には交換留学プログラムの名前が認められた。その封書の厚みから、合否の程は不明ながらも、受取人に伝えたい詳しい情報が入っていることは確かだった。とにかく、いつかいつかと心待ちにしていた書類が届いたのである。飛び上がらんばかりに歓喜し、書類を高々と掲げ、「ありがとうございます!ありがとうございます!」と、先ほどとは違ったトーンで、青年にというよりも、地上の全ての人々に対して、何度も繰り返し叫んでいた。青年は小学校時代の同級生宛の封書と分かった時に、先ずはどきんと胸が高鳴り、封書が郵便受けに入れるには大き過ぎて入らずに、呼び鈴を鳴らさねばならないと判明した際には、口から心臓が出るのではないかと思う程ドキドキし、意を決して呼び鈴を鳴らしたところ、本人が出て来たので顔から火が出ているのではないかと心配する程だった。ところが、今度は全く予期していなかった彼女の反応に大いに戸惑ってしまった。あっけにとられて立ちすくみながらも、自分の本来の仕事が未だ残っていることに漸く気が付き、たすき掛けにした重い鞄を揺すりながら、じゃ、と軽く会釈をして、その場を離れたのであった。


 一人残された彼女は慌てて封書を開けると、「おめでとうございます。あなたはオーストラリアへの交換留学プログラムの留学生として選ばれました。出発予定日は1月中旬となります。」との文言が目に飛び込んできた。留学できることに心の底から喜び、行き先が米国ではなくオーストラリアであることには、大きなこだわりを覚えなかった。丁度母親の知り合いが仕事でオーストラリアに行ったとかで、良い国だったわよと聞いて、深く考えずに第二希望に記したので、オーストラリアがどんな国なのか良く分かっていなかった。それよりも、何より、ひと月もたたずに出発することに胸が高鳴った。


 彼女は比較的裕福な家庭で非常に理解ある両親に恵まれ、幸せな幼少時代を送り、高校も希望の学校に進学していたのだが、何か物足りなさを感じていたのだった。彼女の両親は自営業を営んでいて、田舎の小さな町でよくあることだが、学校でも苗字ではなく屋号で呼ばれることが多く、それが嫌でたまらなかった。どこどこの娘。それが彼女に与えられた呼び名だった。良くも悪くも、先ずは屋号があり、そこに付随しているだけの自分の存在が情けなかった。加えて彼女は一卵性双生児として生まれてきており、常に双子のレッテルを貼られていることに我慢が出来なかった。一人の人間として見られているのではなく、どこどこの娘であり、双子の一人としてのみ認識されていることに、歯がゆさを感じていた。若さゆえの傲慢さ。とにかく新しい環境で、あらゆる関係から解き放たれて、自分というものを発信したかった。家庭や両親の家業があっての自分であることに気付かされたのは、留学先での一年の間であり、傲慢な鼻っ面は一瞬にしてへし折られたものだった。


 彼女はホストファーザーの「Nobody loves you.」のフレーズを改めて思い出しながら郵便受けを開けた。空っぽだと思っていた空間には、不動産からの広告に交じって、真っ白な長方形の封筒がぽつんと入っていた。ダイレクトメールではないことが直感で分かり、手にしてみるとエリザベス女王のシルエットの切手が二つ貼られていて、手書きで宛名が認められてあった。差出人の名前はどこにも見当たらなかった。彼女は不動産の広告を二つ折りにし、手紙を挟むと、考え込むように家に入り、書類やメモ帳などを置いておく小さなテーブルの上に無造作に放った。かくして、差出人不明の手紙は対応済みと仕分けされたかの如く、暫く放置されることとなった。


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