「宇宙の秩序を思わせる、彼の身体から発せられる、あの天空に響き渡る透明な音色。その瞬間、彼の内部では全ての物事がすっきりと調和し宇宙と繋がっているんだ。でも、そんなこと、本人は意識もしていないし、理解もしていないのさ。」
ゆるやかながら日差しに温もりが感じられるグループレッスンがあるいつもと同じ土曜の午後。井戸端会議のように、外のベンチに数人の親たちと座り込み、ティーンを持つ親の悩みや、バカンスの計画、美味しいお店、手ごろなケーキのレシピなど、他愛ないことを話題にし、のんびりとしていた時のことだった。当時、彼女の中学生になる息子はバイオリンを弾いていて、鬱蒼とした森の中の栗林に囲まれたバイオリン教室に通っていた。
何故そんな話題となったのか。幼い子供を持つ父親が、自分の子供たちは未だ偉大な音楽家ではないが、人間にとって音楽というものが如何に大切か、それが人間形成にとってどんなに価値あるものなのか、年長の生徒達の演奏を見ていると分かる気がするよ、と話し始めた。そうして彼女の息子について、あのように言及したのである。彼女の身体は雷に打たれたような衝撃が走った。別の父親が彼女の息子と同年代の自分の息子の話をし始めたことで、それ以上の会話はなかったが、思わずひれ伏して涙したくなってしまった。彼の言葉こそ、天空に響き渡り大地を唸らせるものであり、その瞬間、宇宙に意識が飛んでしまったかのようだった。
彼女にとって、音楽とは生活の一部であり、同時に異次元の空間でもあった。子供は3人ともバイオリンを幼い頃から弾いていて、彼らにとってバイオリンは指先や肩に繋がっていて、まるで体の一部のようでさえあった。ある日子供のバイオリンの教師が、唐突に彼女にバイオリンを手渡してくれたのがきっかけで、彼女も奏者側に身を置くことになった。それはバイオリンにビオラの弦を張ったもので、自分のバイオリンを生徒に絶対触れさせもしない教師が、特にお願いしたわけでもないのに、さあ、と手渡してくれたことに驚いたものだった。子供たちの父親が家を出てから、二年ほど過ぎた時だった。当時の彼女の心に欠けているもの、飢えた精神、悲哀を感じ取ったのであろうか。教師の心遣いがあまりに嬉しくて、その気持ちに応えたくて、一週間借りた後すぐにアトリエに行き、自分用のビオラを手に入れたのだった。
聴く側から演じる側に身を置くことで、ここまで世界が変わるものか、理解の幅が膨らむものなのかと圧倒される思いだった。猛練習した成果が必ずしも音に表れないもどかしさ、皆の前での演奏で、緊張して弓が弦を弾いてしまい、惨めな結果に終わった時の恥ずかしさと悔しさ。演奏する子供達への接し方も、自ずと変わってきた。
そしてある時、グレングールドのバッハのイタリア協奏曲を聴いていた時、何の前触れもなく、突如として宇宙から舞い降りたかのように、男に関してある誤解をしていたのではないかと疑念が湧き、ゆっくりと今一度その時の情景を再現してみるにあたり、疑念は次第に確信にと変わったのであった。
その時、男は彼女が運転する車のスピーカーから流れ出したチェロの演奏に対し、騒音だから止めてくれ、と如何にも辛そうに顔を顰めて、宣ったのでった。あの時の凍りつくような思いをどう表現すれば良いのか。魔法がすっかり解けてしまった思いがした。それは彼女の台湾の妹が編集してCDに焼き付けて送ってくれたヨーヨーマ特集で、とても気に入っていて、いつでもどこでも聴いていたものであった。楽しかった気分は一瞬にしてもぎ取られ、共鳴、共感し合えない相手と、時間を共有することの苦々しさを味わったものだった。
あの時、彼女は男が彼女が選択したCDの曲を嫌ったのかと思った。ひどく傲慢な態度と思われ、選曲して送ってくれた妹をも侮辱している気がして、腹立たしかった。が、そうではなくて、微妙な音も鋭敏に耳に入るピアニストの男にとって、大して高品質でもない車のスピーカーから流れてくる音が、ノイズ交じりで、耳障りな雑音としか聞こえなかったので、止めてくれと言ったとしたらどうだろう。CDもオリジナルではなく、素人が焼き付けたものであったことも、この仮説の正しさを大いに裏付けてはいまいか。
彼女は男に対して、大きな誤解をしていたことに遅まきながら気づくことになる。真実は求めている時ではなく、突然訪れるものなのだろう。されど、だからといって、男に対する冷めた感情が再び燃えることはなかった。気持ちのすれ違いとは、なるべくしてなるのであって、一旦すれ違ってしまうと、ずれはどんどん広がっていくばかりで、止まるところを知らない。
こうして男のことはすっかりと忘却の彼方に葬り去ったにも関わらず、今回亡霊のように現れた男からの手紙を、彼女は大いに持て余していた。彼女は改めて深くため息をつく。そうして不動産の広告に挟まれた白い封筒を、おもむろに手に取ると、ナイフをあてて封を切り裂いた。
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