2014年3月31日月曜日

天空に放たれた言葉



「結局のところ、男って夢見るばかりで、女は現実的なのよね。夢を持つことは素晴らしいけれど、夢を見ているだけでは実現はしない。行動に移さないと。」

そう書いてしまってから、しまった、と思うも後の祭り。
相手は9千キロの彼方にいる初恋の彼。このところ、すっかり音信不通状態。厳密には、こちらから連絡を途絶えていた状態であった。最後の交信は年始の挨拶に遡ろうか。簡単な挨拶で済ませたくない間柄とのお互いに思い入れがあるから始末が悪い。ハローだけでは、物足りず、だからといって、事細かに今抱えている問題を報告し合う程、近距離にいるわけではない。いや、そもそも、20年以上も会っていない。しかも、こちらには報告する程の話はない。むしろ、根掘り葉掘り問われれば、正直に答えざるを得ず、そうしたら説教されるに決まっている。そんなことよりも、突き詰めれば、再会のときめきの可能性など皆無に等しいと悟ってから、どうも彼に対するテンションが下がってしまっていた。

それでも、時々、チャットが入る。ああ、元気にしているんだな、と確認し、返事もせずに放っておくと、また忘れた頃にチャットが入るといった感じであった。そして、アカウントのステータスは常にアイドル状態。「こちらは常に繋がっているから、何かあったら連絡を。」といったメッセージが隠されているようで、どうにも重たく感じていた。勿論、本当の理由なんて説明されたこともなく、相変わらず、こちらが勝手に解釈し、勝手に感じているだけに過ぎないことは分かっていた。

そして今回も、いつも通りの元気確認チャットが入る。
ここのところ何か思うように掴めず、若干投げやりな気分にもなっていて、それでいて、現状打破を焦燥感を持って願っており、「変化は自分から」との言葉が胸に突き刺さるように思われ、それでも右足と右手を一緒に出して歩ってしまっている様な変な感覚が続いていた。

9千キロ彼方の彼は元気なのだろうか。
「久しぶり。元気にしている?」そう打つと、連打で答えが返ってくる。
暫く、たわいない話をする。それから、再会を希求する言葉が連なり始める。

リッピサービスだ、なんて思わない。真摯さに欠けるとは決して言わない。でも、現実味を伴わず、どこか空疎で、そこに悲しみを見出してしまう。何度エアチケットを調べ、ホテルを探し、色々な再会の場を思い描いただろう。そうしてはっきりと分かったことがある。彼は国に全てを捧げており、24時間、時間的な拘束がある。そして、常にボディーガードに見守られ、プレイべートな時間などない。国外に旅行など考えられず、詳細なる計画を政府に提出し承認される必要があり、現実的に旅行などほぼ無理。辛うじて、相手国から正式な招待を受けてのミッションとなれば、国外に出られるが、その時には過密なスケジュールが待っている。分かってはいるが、つい、書いてしまった。
「いつ正式に遊びにおいでよって招待してくれるのかしら。」
「いつでも大歓迎だよ。ずうっと会いに来てくれるのを待っているよ。」
だから、誠実さが伴っていないのよ。嘘ばっかり。無理じゃない。
「ありがとう。でも、本当に私がそこに行ったら、困るでしょう。」
すると、これまたいつものことで、「なんとかするよ。シンガポールかバンコクあたりに行けたらいいんだけど。」
「公式ミッションで?」
「いや、違う。」
「そんなこと、できるの?」
「できたらいいと思っているよ。」
「退職するまで、そんな自由はないのかと思っていたわ。ねえ、じゃあ、私はあなたの国に行くよりも、東南アジアに行く方がいいのかしら。」
「いろんな選択肢を考えて、チャンスを待つ。」

その答えを聞いて、先程の言葉を書いてしまっていた。
「結局のところ、男って夢見るばかりで、女は現実的なのよね。夢を持つことは素晴らしいけれど、夢を見ているだけでは実現はしない。行動に移さないと。」

「君の言う通りだよ。」

一体、それがどんな意味なのか。どんな結果に繋がっていくのか。
一つ変わったこと。それは、彼のアカウントのステータスがアイドル状態ではなく、ログアウトの状態となったこと。

夢は実現させないと。
今、天空に放たれたその言葉が、確かな重みを持って戻ってくる。
行動せよ。
活力が腹の底から湧いてくる。




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2014年3月29日土曜日

春の宵に






誰もいないキッチンに一週間分の買い物袋を並べ
冷蔵庫と整理戸棚に一週間後にはなくなるであろう品々を突っ込み
ぼんやりとキッチンの窓から外を眺めやると、
夕闇迫る薄暗さの中で、ふっくらとした塊が真白く輝き放っている。

外に飛び出す。
昼間の陽気さをたっぷりと残した暖かさの中で、
さくらんぼの木に、純白の花がふっくらと咲き誇っている。

去年の今頃、花咲か爺さんとなるべく、幾つか枝を斬り、
暖房の効いた部屋で蕾に霧吹きをし、
歌を歌ってやったことが思い出される。
真夜中に通りで満開となっている大ぶりの枝を失敬した仲間もいたっけ。
森に咲き誇っている枝を探しに出かけ、幾つか採ってきた仲間もいたはず。
知恵と気合で見事な枝を再現した仲間もいた。
皆が一つになってイベントの成功に向け奮闘していた、去年の今頃。

さくらんぼの純白で可憐な花を見ながら、
心の底から仲間たちへの感謝と愛しさが突き上げてくる。

この庭のさくらんぼが咲くたびに、
きっと思い出すであろう。
あの時の興奮。
分かち合った時間と空間。

久しぶりに、皆に声を掛けようか。
月明かりに、さくらんぼ酒でも飲みながら、
春の宵を一緒に、どう。





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2014年3月27日木曜日

大満足の最高の境地




ぼんやりとしていて、腹の底から力が出てこない。こんな時って、無性に美味しいものが食べたくなる。でも、どうやら今回の無気力は、それこそ体の奥底からのものらしく、珍しく、何もアイディアが浮かび上がってこない。

「何か、とっても美味しいものが食べたいよね。」
そうつぶやいたら、息子バッタがすかさず、「うん!熱々の白いご飯が食べたいっ!」
そう来たか。分かるけど、ちょっと違う。そうじゃないんだよね。その無言の思いが通じたのか、今度は『餃子』が食べたいという。餃子、ね。

スーパーに餃子の皮なんて便利なものは売っていない。タピオカの粉さえ売っていないのだから。そうか、アジア食料品店を経営しようか。店頭では珍珠奶茶あたりを扱えば人気になろう。一人悦に入っていると、隣で息子バッタが浮かない顔をしている。大丈夫。千と千尋の神隠しに出てくるような店構えにして、それこそ、名無しのようなお面を被るから、誰も君のママだとは分からないわよ。「そうじゃないよ。」小さな声が返ってくる。「ここでは、そんなに需要はないと思うよ。」

そうかなぁ。確かにテイクアウトの中華は何軒か街中にある。中国人や台湾人たちは、そこで外帯(ワイタイ)しちゃえば事足りるし、わざわざ自家製に拘る必要もないのか。しかも、お店だって実のところパリの中華街から仕入れているのだろうし。時々、むらむらっと美味しいものを手作りしたくなっちゃう顧客向けの食材屋など、儲けが見込めるどころか、商品の回転が悪くて冴えないか。一瞬にして、提灯まで外に出して、朱色を基調とした店構えで、いそいそと名無しのお面をつけて学校帰りのアド(ティーン)達に珍珠奶茶や紅豆湯を振る舞っている姿が消え、白い蛍光灯がぼんやりと、山積みの在庫の上の埃を照らしている様子に変転してしまう。

ま、取り敢えず、今日は餃子にしよう。

小麦粉に水。
確かに、これだけで餃子の皮ができちゃうんだから、食材屋なんて必要ないか。ひとまとめにして、ラップをかけて放置している間に、餃子の中身を用意する。ニンニクと生姜はみじん切り。キャベツはちょっと大きめサイズのみじん切り。ニラがないのでほうれん草を適当に切って、全てボールに入れ込むと、ソーセージの中身となるらしい豚肉と混ぜる。そこに醤油、ごま油、オイスターソース、冷蔵庫にあった白ワインを混ぜる。

餃子の皮は息子バッタに手伝ってもらう。

自分の発案が採用されたからか、喜んで手伝ってくれる。真っ白になりながら、それなりに器用に生地から丸い皮を作り出していく。

その皮にニンニクとごま油が香ばしい中身を入れて包んでいく。あれよ、あれよと24個。足りるのか、足りないのか。

しっかりと熱したフライパンに油をとり、静かに餃子を置いていくと、ジュッツ、ジュッツと心地よい音がする。底がうっすら焼けた頃に、熱湯を回して蓋をして蒸し焼き。欲張り過ぎたか、餃子を沢山入れたことからフライパンは身動きがとれない状態。這う這うの体でお皿に載せると大歓声。

餃子のタレはお醤油とお酢、と言っても、バッタ達は醤油しか用意しない。好きな味付けで食べることが最高なのだから、まあ良しとするか。

皮は思った以上にもっちりとしていて、こんがり焼けた底が香ばしい。野菜たっぷりの身もジューシー。

あっという間に二回目に焼いた餃子も一つを残してなくなってしまう。

「一人6個の勘定。6個以上食べたと思う人は権利なし。」

厳かに宣言すると、末娘バッタと息子バッタは10個以上食べた気がする、と、こそこそし始める。

「へえっ。じゃあ、あたしが食べていいの?」
嬉しそうに長女バッタの箸が伸びる。

あれだけ手間暇かけながら、一瞬にして焼き上がり、一瞬にしてなくなってしまった空っぽのお皿を目の前に、なんだかはぐらかされた思い。

いやいや、これこそ、大満足の最高の境地。
天晴れ、天晴れ。





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2014年3月25日火曜日

変化は自分から始まる




「変化とは、求めるものではなく、自分から行動を起こして得るもの。」
ずしりと重い言葉を残して、40年間の現場での経験を経たクリストフ ボシュアの教育理念に関する二時間のスピーチが終わる。そして、次は実践。

ほんの少し前まで、ママの膝を離れられなかった子達が舞台に10名ほど揃い、スケールの練習が始まる。ミ、シがフラット。ト短調(ソルミナー)なんて名称を知らなくても、彼らは自分のものにして優雅に弾いている。クリストフの音に複雑なリズムが加わるが、集中力のなせる業か、続く子供たちは皆ぴったりと揃っている。そして、バッハのガボット、ソルミナーが始まる。「ここはどんな風に弾こうか」「今の感じ、どう思う?」子供達との対話が始まる。「ほれ、ここはこんな感じで。ほれっ!」なんとも愉快。蜂の集団が近づいてくる感じ、養蜂家が養蜂箱の蓋を閉めた様子、勝手に蜂が出ていく様子、などなど。楽しみながら練習していくうちに、具体的なイメージが音に乗る。教師の指導もさることながら、その教えを見事に反映させる生徒達も立派だと思ってしまう。

子供たちがサイツの曲を弾き始めると、バッタ達が4年前に師の教えを受けた日のことが鮮明に思い出される。そういえば、あの日は私が彼をポワシーの駅に迎えに行ったのか。突然の役割に戸惑うものの、バイオリンを手にした人はそういまい、と、田舎の駅に車を飛ばした。クリストフは驚くほど気さくで、毎年南アフリカの孤児院に行き、子供たちにバイオリンを教えているといったことを、非常に淡々と語ってくれたことが印象的だった。

Perpetual Motionを片足を上げたり、折ったり、跪いたり、飛んだりしながら子供達と弾いてレッスンは終わる。1時間弱。なんというエネルギーだろう。彼は疲れ知らずなのか。休む間もなく次のレッスンを受けるバッタ達が既に舞台には押し寄せていた。

クリストフとのレッスンではヴィヴァルディのコンチェルト、ラミナー(イ短調)の第三楽章およびソルミナー(ト短調)の第一楽章が予定されていた。さびの部分を先週は100回弾くことが課題としてマリから出されており、バッタ達がひーひー言いながら練習していたことを知っている。丁度、そのさびの部分が取り出され、皆が弾くのを聞いて、クリストフが「おお、いいねぇ。ちゃんと練習しているね。」とコメントするや、観客席の隅でマリが円満の笑みにガッツポーズ。マリにしてみれば、普段の彼女の教えを評価されていることにも繋がるわけで、謂わば、子を褒められて嬉しがる親そのもの。バッタ達も満更でもなさそう。様々な弓使いの指導を受けている子供たちを見て、ふと、息子バッタの姿勢に目を見張る。まだまだ大樹のように、ずっしりと構えて立ってはいないが、あれだけ注意しても治らなかった姿勢が気にならない。ヴァイオリンが下を向いていて、まるでそれではチェロじゃないかと嫌味の一つも言いたくなる程だったのが、今ではしっかりと上を向いている。そして、クリストフの冗談を嬉しそうに笑っている。

グループの中では一番の年長となる長女バッタが、爽やかで素直な笑顔でいることも嬉しい。反応も良く、クリストフも、つい彼女に向けて話を進める。いや、そんなことはない。ちゃんと一人一人と対話をし、僅かな時間で皆との温かな交流が感じられる。末娘バッタもひた向きなバンビの瞳で真剣に取り組んでいる。ボーイング、アクセント、ちょっとした指示が音に幅と軽妙さをもたらす。

実は、この二つの曲は、バッタ達にとって随分前に弾いていたもの。それを今回改めて丁寧に詳細に渡って、情緒も加えて弾き方の指導を受けることで、彼らには新たな喜びと発見があることに気が付く。次の曲、新しい曲、と進むことしか考えなかった余裕のない日々も懐かしいが、立ち止まって、昔の曲に戻ることの大切さ、過去と今の連続性と継続性に思いを馳せ、そこに常に新たな発見が満ち溢れていることに気が付いたことに、嬉しさを噛みしめる。

レッスンはあっと言う間に終了してしまう。クリストフが子供達を労っているのだろう。皆、ちょっと下を向いてはにかんでいる。勉強も大変となり、スポーツなど他の活動にも時間を取りたい中で、練習を続けている彼らを激励してくれたのだろう。

「すごい速さでついていけなかったよぉ。」「自分の音しか聞こえなくて心細かった。」「もう終わっちゃったの。」がやがや言いながら、子供たちが舞台から降りてくる。夜のTGVでリヨンに帰るのだろうか。クリストフが外套に身を包み、帽子を被る。そこにバッタ達が駆け寄る。「先生、ありがとうございました。」一人一人を腕に抱いて抱擁し、外に一歩踏み出しながらクリストフが大きな声でにっこりと微笑みながらバッタ達に伝える。「がんばれよ。将来は君たちにかかっているんだぞ。」


思ったほどの渋滞もなく、パリから我が家に戻り、慌てて作った夕食を囲んでいる時、「ほら、いいぞっ」って、何回も褒められちゃったよな、と息子バッタが嬉しそうに言う。「私ね、子供には、もう二歳の頃から音楽を始めるわ。それから、ダンス、そうね、クラシックダンスをさせてあげて、スポーツも何か一つさせてあげるつもりよ。でも、絶対に音楽は二歳から始める。」そう宣言する長女バッタ。「子供の前に、相手がいないと。」そう混ぜ返す息子バッタ。

でもさぁ。それって、ママがみんなにしてきたことじゃない。ママがしたことに賛成してくれるってことよね。

そう言うと、暫く考えた長女バッタが、にっこりと微笑む。「そうだね。そうだよ、ママ。」






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2014年3月21日金曜日

敗者復活-偉大な馬鈴薯の力







マッシュポテトと片栗粉。そう、葛粉でもなく、コーンスターチでも、ましてやマンジョカの粉でもない。主要原材料馬鈴薯、パルメザンチーズ、卵(薄朱色の泥のついた野放し卵!)。





熱々のホクホク、モチモチ。にんまり。

されど、マンジョカの粉探しの旅は続く。。。





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2014年3月20日木曜日

薄朱色の泥のついた野放し卵



冷蔵庫に鎮座している薄朱色の卵たち。前の家のマダムの娘さんが、ノルマンディーの田舎で野放しで育てている鶏の卵。殻には糞やら土やらがしっかりとついていて、いかにもワイルド。卵を割る時には殻を洗わないと、うっかりと余計な栄養までついてきそう。

バッタ達が幼かった、ちょっと前まで、日曜の朝食だけは一緒にゆったりととっていた。バッタ達が目覚める前に家を出ていたことからも、皆で朝食を一緒にとることは優雅さを伴っていた。そうはいっても、特別な料理をするわけでもない。それでも、「たまご、食べる?何がいい?」と聞けば、いつだって元気な声で「とろんとしたの。」「ふわふわの。」と答えが返って来ていた。

そう、あの頃。いや、今だって卵料理はちょっとした贅沢。時間をきっかりと見て作る半熟卵の美味しさは格別。そういった余裕があることが美味しさを一層際立たせるかのよう。オムレツにしても、チーズをすべりこませ、トロリとチーズがとろけ出るオムレツは最高。目玉焼きだって、黄身に薄っすらと白く膜が張った状態を目指す。いつだって真剣勝負。

そうして、泥のついた野放し卵を手にしつつ、20年以上も前の光景が突然思い起こされる。オムレツと言えば、卵オンリーの一品だとばかり思っていたあの頃。玉ねぎのスライス、赤と緑のポワブロンのみじん切り、緑の唐辛子、そして摩訶不思議な香辛料が入った、熱々のオムレツを目の前で調理してもらい、お皿にするりと入れてもらった瞬間。一口食べて、その美味しさに心震わせたあの日。

不思議なことに、記憶の底に押し込まれていて、今まで取り出したことさえなかった。沢山の思いが重なってしまって、このアイテムは忘れ去らていたに違いない。

そうだ、あのスリランカオムレツを作ってみよう。

先ずは、この元気いっぱいの泥つき卵を洗うとしようか。






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終わりなき学びの道



タピオカと言えば、臺灣の珍珠奶茶。太めのストローから、甘いミルクティーと一緒にどろんどろんと口の中に入ってきて、思わずびっくり。むちむちっとした食感が嬉しく、小寒い時にはホットの珍珠奶茶。うだるような暑さの時には、きりりと冷えた珍珠奶茶。世の中、あんな美味しい飲み物があるのかと当初は感動したもの。いや、今だって帰りの臺灣桃園國際機場にて、最後の一杯を求めてしまう。

昨年、末娘バッタが二ヶ月のオーストラリア滞在を経て帰国した際のスーツケースの底に、この乾燥タピオカの袋が潜んでいた。デザートの『frog egg/カエルの卵』が美味しくて、材料がフランスにないかもしれないからと、一袋貰って来たと言う。フランスでは何故か『perle du japon/日本のパール』の商品名で箱入りで売られている。いや、実際は手にしたことがないので、大きさや品質などは不明。我が家では、末娘バッタが何度かオーストラリアから持って帰ったもので、デザートを作り、楽しんでいた。

そうして、今回のブラジル。当地では『mandioca/マンジョカ』の粉を『タピオカ』と呼んでいる。その粉だけを、水も何も入れていない、ただの粉だけを熱したフライパンに薄く敷いて、ごく簡単に両面軽く焼き上げる。すると驚くべきことに、真っ白な薄い皮が焼き上がるのである。それを『クレープ』と呼んでいて、その中に削ったココナツとエバミルクを入れて朝食の一品としている。

そもそも、『タピオカ』の原料こそが、『mandioca/マンジョカ』。これまで『タピオカ、日本のパール』と呼んでいた球状のものは、この『mandioca/マンジョカ』の粉を加工したもの。糊化させたタピオカを容器に入れ、回転させながら雪だるま式に球状に加工し、乾燥させたものを指す。

ここまで煩く拘らなくても、と思われるかもしれない。しかし、拘らなくてはならない理由がある。

先日より『bergamote/ベルガモット』を探し求めている。疲れた時には大いに癒されるアールグレイの香りの素であるベルガモットがマルシェで手に入ると耳にし、非常に興味を持ち、ぜひ、そのベルガモットのゼストとジュースで、ベルガモットケーキを焼き上げたいと思っていた。しかし、マルシェの隅から隅まで彷徨えど、見つからない。自然食のスーパーに立ち寄る。ここにもない。どうやら季節は終わってしまった模様。そんな時、ふと『tapioca/タピオカ』の袋が目に入る。真っ白な小さな顆粒状。末娘バッタがオーストラリアのアジア食料品店から買って来た『frog egg/カエルの卵』の材料と材質が違う。あの袋には『tapioca perle/タピオカパール』と明記されている。そうか。フランスでも、ブラジル同様、『mandioca/マンジョカ』の粉を『タピオカ』として販売しているのか。

小躍りして二パックも購入。既に、得意の思い込みはスタートしていた。

帰る道々、ポンデケージョを作ろうとウキウキしていた。パルメザンチーズの入った、『mandioca/マンジョカ』の粉で作ったチーズパン。香ばしくて、周りはカリリとしながら、中味はモチモチの熱々。

そうして、いつものように時間をかけて幾つものレシピを見比べ、今回使わせてもらうレシピを決め、書き写し、早速作業開始となった。が、どうも、どうも、様子が違う気がする。タピオカの粒が意外に固く、生地としての滑らかさに欠ける。それでもなんとか、丸を作り、オーブンプレートに並べる。あの粉を焼いただけでクレープが作れたのだから、このタピオカは熱を加えられると、しっとりと膨らむに違いない、そんな風に考え、自分を安心させようとしていた。




180度のオーブンで焼き上げる間、香ばしさでキッチンは幸せに包まれる。しかし、どうみてもハリネズミの様相を呈したボールは丸みを帯びてこない。

20分後、6つの期待に輝く瞳の前に、熱々のハリネズミパンが供される。

中はモチモチ。チーズとタピオカが絶妙な味わいを醸し出している。問題は外側。硬さの残る粒は、香ばしいというよりは、乾燥した米粒を焼いた感じ。膨らんでもいないし、頑なにそのままの姿を留めている。

バッタ達は、それぞれに美味しいとの歓声を上げていたが、作成者の意図とは全く違ったものとなってしまう。ひょっとしたら初めての失敗。


そうして、しみじみと冷静になって思う。自然食のスーパーで買った『tapioca』はパール状ではなかったが、『mandioca』の粉を糊加し、乾燥させたもの。粉とは別物であることを再確認するに至る。

溜息。
しかも良く見ると、袋に貼ってある写真はスープやソースに濃さを出す特徴を生かした一品ばかり。

改めて『mandioca』の粉を探し求めて、マルシェに繰り出さねば。



しみじみと、デファクトスタンダードの重要性が思われる。
なんと紛らわしい。いや、これも己の思い込みの激しさからなす結果か。てかてかとした茶色の細長い芋、mandiocaが不敵に笑っているように思われる。

日々是精進。
終わりなき学びの道。




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