2011年9月27日火曜日

オーストラリアの父、ジョン


東の空に引っかき傷のような月を見つめながら、週末にもらったメールを考えていた。送り主はジョン。他でもない、私の16歳から17歳にかけてお世話になったホストファミリーであり、オーストラリアのお父さんである。

16歳になった12月の誕生日に留学機関から合格通知をもらい、行き先がオーストラリアであること、出発予定が翌年の1月であることを知り、アメリカ留学とばかり思っていただけに、一瞬落胆を覚えた。が、それは急速に興奮に変わり、ホストファミリーの写真を見て、素敵な中睦まじいご夫婦だけの写真に、これも一瞬落胆を覚えるが、それも急速に興奮となって体中を駆け巡ったことを今でも覚えている。

オーストラリアについての知識などちっともなかったので、一つ上の兄が、我が家にある大百科事典でオーストラリアを調べ、もともと英国にとっての流刑植民地であったこと、ゴールドラッシュや白豪主義、主食はじゃがいも、そして、現地人のアボリジニの存在などを簡単に説明してくれ、かなり面食らい恐ろしくさえなったことも、今では笑い話である。

ホームステイ先はサンシャイン州とも言われるクイーンズランドの州都ブリスベンから1時間の田舎町イプスウィッチ。とにかく未だ高校一年の16歳。ホストファミリーに同じような年頃の子供達がいればきょうだいのように仲良くして色々教えてもらおう、などとあわよくば考えていた。それが、ご夫婦だけの家庭に、それこそ年子の兄と双子の妹と、まるで団子3きょうだいのように育った私が一人放りこまれたことになる。

英語環境以上に、カルチャーショックであった。そして、その当時はそこまで考えが到らなかったが、受け入れ家庭の彼らにしても、子供のいない生活から、急に16歳の子供を家族の一員として一年間も迎え入れることは、相当な覚悟であり、大いなるショックであったに違いない。

ジョンの吸い込まれるような、キャンディの様なブルーの瞳に初めて正面から見据えられ、話を聞いたのは別送品受け取り所で。1月の暑い太陽の陽射しを受けながら、ゆっくりと、しかしきっちりと、ストレートに話をしてくれた。

つまり、オーストラリアには食品などを送っては駄目であると。私は泣きそうになっていた。母が一年間の滞在で困らないようにと、救急セットから衣類、ノート、梅干、海苔も含め、あらゆるものをダンボールにきっちりと美的に積めてガムテープでしっかりと止め、紐までかけてくれたのに、そのダンボールが駄目だと、入国審査で撥ねられていた。

一体、何がいけないのか。母の気持ちが否定されたようで、滞在初日から悲しかった。それでも、あの日のジョンの青く澄んで、キラキラとしたキャンディの瞳は良く覚えている。どんなに見つめても、その瞳の奥までは覗けない気がしたように思う。いや、純粋に見とれてしまっていたのかもしれない。

そうして、泣きそうな私の顔を哀れんでか、審査の役人がどこからか箱を見つけてきて、そこに入れ換えるなら中味を持っていっても良いと譲歩してくれた。どうやら、使用したダンボールが気に入らないらしい。

母が特別にしっかりとしたダンボールが良いだろうと、選別してくれた林檎の箱であった。日本語しか記載されていないのに、何が問題なのか。と、やおら役人が林檎の絵を指してウインクをした。確かに、真っ赤な林檎の絵が描いてあれば、それが林檎に使用されたダンボールであることは簡単に推測できる。使用済みであれ、果物の箱を持ち込むことは禁止されているのであった。

初日からこんな具合であった。真剣に真正面からストレートに話をするジョン。その前の一週間、留学仲間と大勢での留学準備キャンプを過ごしていただけに、その期間が夢のような楽しさであっただけに、一人で大海原に放たれた小さな金魚のように、心もとなく、家族を思って、辛かった。

コアラを抱っこしに連れて行ってもらったり、カンガルーやワラビーを見たり、レインフォレストで森林浴をしたりと、学校が始まる前の期間、今思うと、多くのイベントで私を歓迎してくれていた。

と、ある晩、ジョンがやはりキラキラのブルーの瞳で私を見据えながら話し始める。

「これは、君にとっての貴重な一年間なんだよ。Happyに過ごさなきゃ意味がないよ。合わないのであれば、ホストファミリーを交換することだって、出来るんだよ。」

その一言で、それまで抑えていた何かが爆発し、私は大声で泣き始め、自分の部屋に走り込んでしまった。ああ、ジョンは、私がHappyではないと思っている。私にここにいて欲しくないんだ、と。

今度は困ったのはジョン。そこで、オーストラリアのお母さん、グローリアの登場。何も言わずに抱いて、泣きじゃくる私の背中をさすってくれた。そう、このスキンシップに飢えていた。留学仲間を思って、家族を思って、寂しいんだと、ジョンとグローリアの家庭に迎えてもらって、私は本当にハッピーなんだと、何度も何度も泣きながら繰り返した。

そんなスタートだった私たち3人の生活は、正に家族の生活として、それから一年続くことになる。

一年後に、旅立つ私にグローリアは、いつか黒髪の赤ちゃんが欲しいと思っていたけど、こうして黒髪の貴女を子供として迎えられてこんなに幸せなことはないわ、とメッセージを書いてくれた。

ジョンは、何も言わずに、しっかりと抱きしめてくれた。

生物の授業がちっとも分からずに、夜中の3時まで辞書と首っきりだった私に付き合ってくれたジョン。最初は、一人で何か夜中に悪さでもしているのかと心配になって、一度寝ていたのにもかかわらず、起き出して来たらしい。

学校の教師との面談で、オーストラリアで大学進学をしない私の教師に会う必要はない、と言ったジョン。悲しそうな顔に気がついたグローリアがとりなし、夜遅く、学校に二人で行ってくれた。そうして、帰宅するや、こんなに誇らしく思ったことはない、とご機嫌だったジョン。

日本の父のお通夜の日、何故か胸騒ぎがすると国際電話をしてくれたジョン。

娘の子供なら孫だ、と言って、私の3匹のバッタ達を孫のように可愛がってくれ、2年前には11歳になった娘を、今年はやはり11歳の息子を、夏休みの二ヶ月、現地の学校に通わせ受け入れてくれたジョンとグローリア。

今ではイプスウィッチは都会になったと、もっと田舎に引っ込んで、ブリスベンからは半日もかかり、ニューサウスウェールズ州とのボーダーの村に100年前の田舎屋を自分達で改築して住んでいる。娘がお世話になったときにはキッチンがなく、キャンプの様な生活だったと後で聞いてびっくりしたものだ。

子供達は、みな、ジョンが言うことによれば、ジョンの話では、とジョン教になって帰ってくる。正に我々のグル的存在。

そんなジョンが、大腸癌だという。

この夏、息子の滞在中、体調が不良なるも息子の帰国まで検査をせず、帰国後すぐの検査で黒と出た。

待って。

19歳の時、父を癌で亡くしている。今、ここで、まだ60代半ばのオーストラリアの父を亡くすわけにはいかない。すぐにも駆けつけようか。グローリアは?

先ずは食生活の抜本的改革と健康回復の為の適度なスポーツが必要とばかりに、アマゾンで英文のその手の書物を買い込み、即、オーストラリアに送る。そうして、メールで、食事の大切さを書き、今にも駆けつけたい旨告げる。

と、すぐに返事。

「いつでも食事を作りに来てくれよ。こんな時こその娘じゃないか。」

化学放射線治療を施されに、一番近くにある200kmの町に5週間は滞在するという。週末だけは帰ってくると。そうして、腫瘍がある程度小さくなれば、摘出手術になると。

「気にしてくれる家族がいるって、悪いことじゃないね。ありがとう。また報告するよ。」

今度の週末、彼の帰宅を待って、電話を入れようか。栗のことでも話をしてみよう。きっとオーストラリアの栗について、一くさり薀蓄を傾けてくれるに違いない。


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