カンファレンスを抜け出し外に出ると、余りの眩しさに目がくらむ。このところ、パリは真夏日。通りのカフェでは遅いランチをゆっくりと楽しむ人々で賑わっている。と、向こうからやってくる男性に気がつく。カンファレンスにいらっしゃるはずのお客様。カナダ人の彼は、トトロの様にポンと跳ね上がり、つぶらな瞳を一層きょろきょろさせ、まるでイタズラを見つけられた男の子の様にバツの悪そうな笑顔を向けた。左手には葉巻。
ふふ~ん。ライバル社とランチ?或いは、一人ゆっくりとビストロでワインを楽しんでいたのかしら?
先週のロンドンでのミーティングのお礼と、その時のフィードバックコメントの催促をする。
そうだった、そうだった、申し訳ない、と大きな体躯を小さくして謝る彼は愛嬌たっぷり。それより、と、彼が続ける。なんだってカンファレンスがフランス語なんだい?メインスピーカーは皆英語が話せるじゃないか。
上場企業のトップマネジメントを迎えてのカンファレンス。場所柄、フランス語にてお願いし、英語での同時通訳がつくことになっている。
フランス人のお客様が多いこと、そして、何よりもマネジメントが母国語でスピーチをすることの大切さを伝える。
「私だって、もしも日本語の会話となれば、全く違ったアピールができると思うのよ。」 とウインクして付け加えると、彼はちょっと不満気ながらも、そうかもしれない、と頷く。
勿論スピーカーにもよるが、時に、フランス人のマネジメントによる英語のスピーチを聞きながら、余りに酷いアクセントに、まるで話の内容までもが幼稚な感じとなり、その会社のイメージが大きく下がることがある。教育され、洗練された人材であるにも関わらず、本人のマネジメントとしての資質までもが問われんばかりになってしまう。更に、母国語ならではのニュアンスもあろう。日本人同士で、如何に英語やフランス語に慣れていても、日本語での会話の方がしっくりくるのと同じではないか。
あれは日本で仕事をしていた20代の前半だったか。いや、フランスに来て、もう一度学生をしていた頃か。英文で、異国の地で仕事をするということは、自国で仕事をすることに比べ、一年目は60%の能力しか発揮できず、二年目、三年目と数値は上がるが、決して100%にはならない、といった内容の論文を読んだことがある。これが、日本語で書いたものであったら、そんなものか、と忘れていただであろう。書き手がアングロサクソン系であったことで、非常に印象深く心のどこかにひっかかり、特に異国の地で働くようになってから、最初の頃は時々思い出しては自分を鼓舞していた。いや、慰めていた。
今になって思うが、もしもあの文章を読んでいなかったのであれば、異国の地での仕事場で、もっと奮闘していたのではないか。現状満足の境地なぞに到らずに、常に自己研鑽に励んでいたのではあるまいか。
いや、そうではなく、あの文章に出会っていたお陰で、ひどく空回りすることなく、潰れずに何とか生き延びてきたのであろうか。
それにお付き合いくださっている皆様に、感謝の念を一層深くする次第である。
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