学校の校門のところで何かを咥えたので、また子供達が捨てたパンの切れ端か何かだろと思っていた。どうやらずっと口に咥えている様子だったが、グラウンドの手前でぽいっと咥えていたものを落とした。それを見て、なんだか違和感を覚えた。芯とは言え、まだ瑞々しい実がたっぷりとついている林檎だったからだった。
広場には犬一匹おらず、なんだか拍子外れな思いをしているのか、トンカの足取りもいつもよりは緩慢な気がした。厳密にいえば、今から思えば「緩慢な動き」だったが、その時は気にも留めていなかった。
森の中では珍しく、小径が三差路になっていたり、十字路であったりする場所で立ち止まり、こちらの様子を窺っていた。というより、私が近づくまで待っていてくれていた。
学習効果、というのだろうか。むしろ、前日のトンカとは別人の様で怖い程だった。
そう、その前の日、トンカはいつも以上にはしゃぎまくり、すっ飛んで行ってしまったので、十字路に差し掛かる場所で、一体どこに行ったのか分からなくなってしまったのだった。いつもなら、暫くすれば茶色い塊がどこからか飛んでくる。ところが、その日は待てど暮らせど姿は勿論、音さえもせず、気配が忽然となくなってしまっていた。
大声で名前を呼び、口笛を吹き、音を立て、トンカを呼び戻すもなしのつぶて。既に小半時間は経ってしまっただろうか。段々と焦る思いが募ってきていた。散歩しているカップルやサイクリストに声を掛け、細身の茶色い犬を見なかったか、と尋ね、もしも見たらサインをしてくれないか、とお願いをした。
夕方近かったので、散歩をする人もまばらだったが、声を掛けて数人目となるランニングをしていた高校生ぐらいの女子学生が、犬なら農場付近で首輪をつけた茶色い犬を見たと言ってくれた。トンカに間違いあるまい。
急いで農場の方に走っていく。前回と同じように農場の門が開いていて、そこに入り込んでしまったのだろう。果たして、農場の門はどうぞと言わんばかりに大きく開いている。大声でトンカの名前を呼ぶが、ちっとも手ごたえがない。一体、あいつはどこに行ってしまったのだろう。
と、遠くでこちらに向かって手を振っている人がいるように思えた。あまりに遠くで自信はないものの、すがる思いでその方向に走って行った。と、綱をつけられたトンカが、バゲットにむしゃぶりついているところだった。森の端に住む農業学校の施設の管理人一家が、何かに怯えるかのように道を突っ走っているトンカを見て、車に轢かれないようにと捕まえてくれていたのだった。
無事にトンカが見つかったことに心から安堵し、お礼をいってトンカを引き取った。トンカからは田舎の香水の匂いがぷんぷんしていたし、勝手に走っていってしまったことにちょっと腹が立っていたし、随分と気を揉んで精神的にも肉体的にも疲れていたので、その夜はハグもせずに、早々にお休みと、私は二階の自室に入ってしまった。
次の日、思えば、一日中トンカはソファーの上で寝ていた。テレワークをしていると、決まって遊んで欲しくてまとわりつくのだが、その日は甘えることもなく、静かに大人しく寝ていた。今から思えば、それも予兆の一つと言えよう。
いつもより早めに仕事を切り上げることができ、早めに散歩に行くことにした。じゃあ、ちょっと早いけど、腹ごしらえをしてから行こうか。そう誘って、ドッグフードをお皿に盛った時、非常に遠慮がちにこちらを見ていたので、なんだか違和感を覚えた。まさか、前日のことを引きずっているわけでもあるまいに。
トンカが食べ物に興味を見せないことは、これまでかつて一回もなかったので、何かがおかしいと感じがしたが、その時はまだ何かの予兆とは思ってもいなかった。
こう考えると、幾つもの予兆があるではないか。
果たして、森の散歩の途中でトンカは急にしゃがりこんでしまった。今まで嘗て、そんなことなどしたこともなかったのに。もう、動けません、そう身体からメッセージが発信されていた。
そうして、漸く起き上がったかと思うと、嗚咽をし、黄色い汁とともに先ほどのドッグフードを全て吐瀉してしまった。そして、また、ぐったりと大地にへばってしまった。
トン。君の具合が悪かったなんて、ちっとも分からなかったよ。そんなことなら、こんな遠くまで散歩に行かなかったのにね。無理させちゃったね。さあ、頑張って歩いておくれね。
トンカは、本当にふらふらと歩き、気のせいかお腹の肉がげっそりとこそげ、今にも倒れんかのばかり弱々しい様子で、なんとか家に戻って来た。そして今、ソファーに伸び切って寝ている。身体を伸ばして寝ている様子に、ちょっと安心する。
農場でまた何か変なものを食べてしまったのだろうか。先ずは、しっかりと落ち着いて様子をみてみよう。
バッタ達にトンカの近況を報告すると、末娘バッタから「ママが隣にいるから大丈夫だよ、きっと!」とメッセージが届いた。親に全幅の信頼を寄せてくれる一言に、ぐっとくる。よし、トンちゃん。安心しておくれね。根拠のない自信で、翌朝元気なトンカを想像し、大丈夫だと強く思う。
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