2022年5月8日日曜日

海の申し子

 






山と海とどちらが好き?


幼い時から頻繁に問いかけられ、その度に真剣に考えてきた難問。


山は身近だった。だからこそ、海に憧れたものだった。浜辺に行くと自然と走り出し、いつの間にか大声で笑っている自分に気が付き、不思議に思ったことがある。砂浜を走らなくなったのは、大人になってからだろうか。海の中にいるだけで幸せだった。


一方、だからといって山の魅力は捨てがたい。緑の風が吹き、鳥たちが囀り、険しい山道を上り詰めた先にある開けた景観の素晴らしさは何ものにも勝る。滝の流れもいつまで見ていても飽きない。山があるから、登ろうと思い、挑み、頂上に達した時の満足感は言葉にならない程である。


トンカはどうだろう。森の中で、生き生きと飛び跳ねるトンカだったが、潮の香りに敏感に反応し、海岸線上の細い小径をややもすると大海原に落ちかけない勢いで飛び回り、砂浜を大喜びで転がりまわる。掘っても、掘っても、砂しか出てこない砂浜で、嬉々として延々と掘り続けるトンカ。カリカリに乾燥した海藻の根っこを、両手で上手に押さえながらがりがりと嬉しそうに齧るトンカ。


正に、海の申し子ではあるまいか。





トンカのそんな様子に、まるで自分を重ねるかの様に満足そうな末娘バッタ。二人はまるできょうだいの様。いや、きょうだいなのか。



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TROU DE L'ENFER 地獄谷

 




 


末娘バッタがパピーと村のレストランでランチをしている間、トンカを連れて散歩をすることにしていた。末娘バッタは最後まで寂しそうな、困った顔をしていたが、田舎とは言えレストランである。皆が楽しい時を過ごしに来る場所に、トンカのような行儀を弁えないちびがうろちょろし、美味しいガレットの焼き上がる香りに声を上げ、チーズとハムと卵の得も言われぬ絶妙なバランスに舌鼓を打つたびにおねだりの声を上げられた日にはたまったものではない。トンカを叱る声さえ耳障りになってしまう。


パピーだって耐えられないわよ。せっかく楽しみにしているのだもの、ゆっくりとパピーとランチをしてね。ランチが終わった頃に戻ってくるから。


末娘バッタだって分かっている。ただ、この晴れ上がった美しい日に、のんびりと村のクレープ屋で、話のかみ合わないパピーと二人だけで食事をすることを、ちょっとだけ重荷に感じていることは確かだった。


にこっと笑顔になり、分かった、じゃあ行ってくるね。と、パピーのいるホームに入って行く彼女の後姿は立派だった。パパがお願いしたわけでもなく、本人の意思でこうしてパピーに会いに来ている。素晴らしい娘になったじゃないか。誇らしくもあり、嬉しくもあった。


こうして、トンカと「TROU D’ENFER」、いわゆる地獄谷に向かった。村を歩いていると、「TROU D’ENFER」と記されている標識を何度か目にしていて、気になっていた。


こんなおどろおどろしい名前は一度聞いたら忘れられない。そして、その名の通り、おどろおどろしい場所が、この島の海岸にはある。初めて連れて行ってもらった時のことを思い出す。夏にしか来たことがない筈だから、夏だったと思うのだが、冬の嵐のように潮風は音を立てて吹き乱れ、海はごうごうと波しぶきを上げ、岸壁の上から見下ろした海のうねりは、それはそれはこの世とは思えぬものだった。


あの嵐の日のような、おどろおどろしい景観を思い出し、あそこにもう一度行ってみたいと思ったのである。


「TROU D’ENFER」は村の中心から歩いて30分ほどのところにあるらしい。標識を頼りに歩いて行くと、うらぶれたカフェがあり、そこから一直線で海岸に抜け出るはずだった。カフェという看板があるから、カフェだと分かるので、実際に経営しているのかは分からなかった。ただ、黒字に赤で大きくカフェと記された看板は、島の健康的なイメージとはかけ離れていて、なんだか場末に来たような錯覚に陥るに十分だった。


その看板は何十年前も同じようにあって、その近くの家の二階でバッタ達の父親と、彼の島の仲間たちとカードをして遊んだことを思い出した。バッタ達の父親も、バッタ達同様、毎年夏をこの島で過ごし、同じように夏の間だけ遊びに来る同年齢の仲間たちと一緒につるんで遊んでいた。


カフェを過ぎると新しく建設されたと思われる立派な家が数軒続き、その後は恐らく以前からあるだろうと思われる家がばらばらと建っている中を真っすぐに歩いた。いや、歩こうとした。ここに来て、まさかの事態が発生してしまった。流石に日の出から歩き通しのトンカが、もう歩くのは嫌、疲れたよ、と主張し始め、駄々をこね始めたのである。


最初は首を優しく撫でて、声を掛けると、ついてきた。そのうちに、そんな甘いことでは動かなくなったので、バナナを一かけあげてみた。これもバナナがある時は上手くいったが、時間が過ぎると効かなくなってしまうのだった。


目的地についたら、お昼にしようとリュックに背負っていたバゲットをちびりちびりと上げることにした。なんとか、なんとか歩いてくれる。時々、自転車が追い越していく。太陽はじりじりと照り付け、参ったなあ、これは行きでしかなく、帰りもあるんだぞ、との思いが強くなる。


地べたにへたばってしまい、もう動きません、の姿勢を見せたので、意を決し抱えてみた。そうするとどうだろう。彼女の沽券にかかわるのか、ぱっと腕の間から抜け出し歩き始める。





そんなことを繰り返しながらも、のんびりと草を食む牛の集団に挨拶をし、鬱蒼と繁る林を過ぎた後で視界が広がり、突然海に出た。


しかしどうだろう。あっけない程の穏やかさではないか。名称による印象が強くて勝手に記憶が書き直されたのだろうか。








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2022年5月7日土曜日

ご来光

 






岬にある灯台にたどり着いた頃、かくして、大海原の果てから橙色の太陽が昇る。






掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 

諸々の禍事 罪 穢 有らむをば 

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 

恐み恐みも白す



ふと隣を見ると、驚いたことにトンカが姿勢を正し鎮座し、目を細めて太陽を見つめている。


トンカにもご来光が分かるのか。こんな神々しい風景を目の当たりにしたら、誰だって立ち止まり、最敬礼するものなのだろう。爽やかな風が体を突き抜けた。



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2022年5月6日金曜日

日の出前

 





島の朝は静寂に包まれている。それでも、耳を澄ませばあちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる。さあ、トンカ、朝の散歩に行こう。


今回末娘バッタが探した我々の隠れ家のような小さな家は、島の南部の浜辺の小さな村にあり、そこはパピーの生まれ育った村でもあった。通りの先には、彼らの住まいがあり、パピーの親戚の家があちこちにあるはずだった。毎年夏に一月は過ごす末娘バッタは、もう島っ子と言っても良い程、島のことを熟知していた。


パピーとマミーの家は、今ではボルドーに住む娘、つまりバッタの父親の妹が管理していると聞いていた。彼女たち家族と鉢合わせしないかとの末娘バッタの懸念は杞憂だった。二階の窓こそ雨戸が開いていたが、一階の窓は全て雨戸がしっかりと閉じてあり、ひっそり閑としていた。庭は思った以上に手入れがしてあって、このところの好天続きで芝生はやや伸びてはいたものの、きちんと刈られた跡があった。それよりも家人のいない庭で、薔薇が見事に咲いている様に、思わず鼻の奥がつんとなる。


マミーを亡くしてしまったことが、家族の求心力を失わせ、こんなことになってしまったのだろうか。感傷的になる私のそばで、トンカが元気に跳ね回り、先を急がせる。そう、岬まで行こう。


初めて島に来た時は真夏だったと記憶している。熱い日差しの下で通った道を思い出しながら歩いて行く。あの時からもう何年たったのだろうか。以前よりは道端の雑草が手入れをされていて、歩きやすくなっているようだが、気のせいだろうか。


海岸線沿いは海風が強いことで有名だが、海は穏やかで風は爽やかだった。トンカが大喜びで疾走する。日の出までは若干時間があったので、周りは未だ薄っすらと夜の気配を残している。真っすぐの道を走っていたトンカが、急に立ち止まり、大草原に踊り出す。どうやら兎を見つけたらしい。兎たちとの追いかけっこが始まった。


トンカのことだから、すぐに戻ってくるだろうと思っていた通り、置いて行かれてはなるまいと思ったかのように、正に脱兎のごとく戻って来た。その様に、思わず大笑いをしてしまう。


海岸線は細い小径が続いていて、少しでも足を外せば大海原が待っている。トンカはまるで子供の様に下を覗いて、思わず落っこちそうな姿勢を保ちつつ、また跳び上がって走り抜けていく。トンカ、落っこちても助けに行かないし、行けないからね。


海はどんどんと日の光をまとって変わっていく。なんと神秘的な時間だろう。




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2022年5月5日木曜日

パピーとの再会

 







何年振りかで会うパピーは、末娘バッタに私が以前描いて送っていたトゥッカーノのカードを見せているところだった。私の顔を見るなり、驚いた様子で、そして笑顔で挨拶をしてくれた。日本の家族は皆さん元気ですか?恐らく母のことを思いやっての言葉であろう。


末娘バッタとは昨年の夏以来の再会であり、突然の訪問を大いに喜んでもらえた。


末娘バッタが車椅子に乗ったパピーを街中に連れ出す。街中といっても、教会があって、クレープのレストランやカフェが数軒あって、パン屋と土産物があるだけの、簡素な、それでいて潮の香りが時々する島の中では一番大きな村の中心部。


日の当たる通りのカフェに陣取ると、飲み物を頼んで、トンカを改めて紹介する。孫娘に会って、久しぶりに外出ができ、パピーはとっても嬉しそう。以前からバッタ達の父親とパピーは似ていると思っていたが、はっとする程酷似している。


時々、一瞬だけど末娘バッタが辛そうな表情をする。パピーは、目の前にいる人物が末娘バッタであることは分かっているが、それ以外のことは曖昧模糊としている。今自分がどんな状況にあるのか、どこに住んでいて、これからどうするのか、など全く把握していない。


夕食はどうする?


トンカがいるので、レストランは無理なので我々は砂浜でのんびりしようかと思っていると私が伝えると、「パン屋に寄って、バゲットを買っていこうじゃないか。」とパピーが末娘バッタに言う。


末娘バッタが優しく、明日のランチを一緒に食べようと誘う。


パピーが生まれ育った島に戻ってくることは、本来なら素晴らしいことなのかもしれないし、パピーが元気で、本人の意思でそうするのであれば、大いに喜ばしいことなのかもしれないが、この状況ではどうなのだろう。


恐らく島は中学卒業と共に出てしまい、パリ、ナント、ボルドーでそれ以降の人生を歩んできたパピー。勿論、島には毎年何度も戻って来たし、家も構えてはいるが、幼馴染も数える程に少なくなってしまったし、知り合いも親戚がいるぐらい。それよりも、何よりも、パピーは今では一人では外出できないし、大好きな海を見ることさえできない。


息子はパリにいるし、息子の子供達、つまりバッタ達もパリ。息子は、いつでも会いに行けるパリにパピーが来てくれることを望んだのだが、パピーの意思決定の代理の権利を獲得しているボルドーに住む娘が、誰と相談することもなく、パピーを島のホームでお世話になることにしてしまった。

娘にしても、ボルドーからこの島まで一日がかりで来る程遠いのだから、そう頻繁には会いに来ることはままならないであろう。


海を見ることができない島の真ん中のホームで、子供達や孫もそう頻繁に会いに来ない、そんな状況がパピーにとって最善とは思い難い。


兄と妹とのつまらない確執なのか。


そんなことよりも、今、この時を感謝し、大切にしよう。パピーの手が優しくトンカの頭を撫でる。




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2022年5月4日水曜日

ウシュカとトンカ






 


我々のエンジン音を聞いてか、真っ白な塊が元気よく突進してきた。ゴールデンレトリバー特有の優しい顔の、毛でムクムクとしているウシュカ、トンカのママ。


森で散策している時、トンカを見て犬種を尋ねられ、ママがゴールデンレトリバーというと、いつも怪訝な顔をされてしまう。それほどトンカの外見はゴールデンレトリバーの特徴がない。トンカが赤ちゃんの時、ウシュカのおっぱいを飲んでいた様子を実際に見ていた筈なのに、トンカが成長するにつれ、どうもゴールデンレトリバーの血を引いているとは言いずらくなってしまっている。


そんなつまらない見た目の特徴など全くお構いなしに、ウシュカとトンカは3か月ぶりの邂逅を楽しむかのように、匂いを嗅ぎ合い、ぐるぐると追いかけっこをし、しまいにウシュカがトンカを押さえつけ、頭を大きな口ではむり、と噛んだ。一瞬だけ戸惑う顔を見せたように思えたトンカだったが、写真で見るととろけるような笑顔をしている。


ウシュカの飼い主、末娘バッタの友達のパピーとマミーは、ブルターニュ地方のおやつ、バターをたっぷりと生地に入れたクレープをたくさん焼いて待っていてくれた。広大な庭の芝生は綺麗に刈り取られ、真っ赤なツツジが見事なコントラストをもたらしていた。ウシュカとトンカの追いかけっこは、猛スピードで続き、末娘バッタと友達のマミーの会話は楽しそうに盛り上がり、パピーは手作りビニルハウスの作業をし始め、なんとものどかな時間が過ぎていく。


5時間に渡る車での道中、トンカは後部座席で末娘バッタと豪快に昼寝をし、ちっとも大騒ぎもせず、車酔いもしなかった。それより、朝、海苔巻きを作ったり、リュックを用意している時、そわそわして落ち着かないので、トンカの縫いぐるみ達を洋服と一緒にカバンに入れ、トンカの大好きなシートを紙袋に入れると、戸惑いながらも大騒ぎはしなくなった。そして、首輪を見せると自分からお座りをして、誇らしげにしていた。大喜びで自分から車に乗ったことなんて、これが初めてだろう。


夕陽が芝生を照らし始め、そろそろお暇の時間となってしまう。トンカがママと一緒に残っていたいよ、などと言う前に、さっとトンカを抱き上げて車の後部座席に乗り込み、トンカを膝に乗せると、ウシュカが名残惜しそうに何度もトンカに鼻をくっつけてくる。これには誰もが参ってしまった。


ウシュカ、また来るね。ありがとう。末娘バッタの運転で、その日の宿に向かう。トンカとの初めてのお泊り。さあ、どうなることか。ブルターニュの夕日が優しい。





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2022年5月3日火曜日

末娘バッタとトンカとの珍道中

 




末娘バッタが試験明けの休みに、パピーに会いに島に行くと言う。長女バッタはパパ達家族とロンドンに行く予定にしていたし、息子バッタは研修が始まったばかりで、休みは取れなかった。ママ、一緒にどう?


そうね、じゃあ車で行こうか。週末前に二日休みを取って、4日間で往復しよう。車で行くなら、トンカのママにもせっかくなら会ってこようよ。


とんとん拍子に話は進んだ。トンカのママ、ウシュカのご家庭への連絡は末娘バッタが担当することになったが、残念なことに彼女の友人は試験明けで両親のいるモロッコに行ってしまっていた。彼女のマミーに連絡をすると、大喜びで歓迎するとの返事がすぐに返って来た。


島にパピーに会いに行くことが主目的なので、末娘バッタの友人がいなくとも、トンカのママのウシュカと友人のパピーとマミーに会いに立ち寄ることに決定。後は、トンカが5時間の車での移動をいかに快適に過ごすかに問題の焦点は移った。まあ、なるようにしかなるまい。


早朝に立ちたかったが、末娘バッタが午前中にどうしても外せない用事があるというので、11時の出発に決定。ご飯を炊いて海苔巻きを作り、トンカを1時間程度の森の散歩に連れ出し、のんびりと出発しよう。そう思っていた矢先、長女バッタからメッセージが入る。


ロンドンに行くには、身分証明書だけではなく、パスポートが必要だったの!ママ達はいつ出発予定?


しっかり者のようで、おっちょこちょいの長女バッタ。北駅の改札で思いつかないだけでも、良しとするか。聞けば夕方のユーロスターを予約しているという。それなら、朝取りにくれば、ママ達はまだいるわよ。でも、駅まではいろいろ準備があるから行けないから、よろしくね。


そう言ってやると、いろいろ準備って何よ?と返事。大統領選挙の時には、パリのパパの家の選挙区で登録しているからと、やはり身分証明書を忘れた彼女に、駅まで渡しに行ってあげていた。やれやれ。バスを使っても、往復小一時間はかかってしまうだろうか。トンカの散歩の時間を少なめにすれば良いだけのこと。車でパスポートを持って行ってあげよう。


いつも週に一回はトンカと一緒に家にいて仕事をしてくれているのだから、これぐらいのサービスはしてあげないと。


以前だったら、予定を狂わされるような横やりが入ると、非常に機嫌が悪くなったものだが、予定といっても適当なもの。ウシュカに会いに行く時間だって、トンカとの道中でハプニングがあれば、遅くなってしまうだろう。まあ、これぐらい、いいじゃないか。それよりも、どうだろう、この晴天!久々の小旅行に心がうきうきとしてしまう。こうして、末娘バッタ、トンカとの珍道中が幕を開けた。



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