2022年5月8日日曜日

TROU DE L'ENFER 地獄谷

 




 


末娘バッタがパピーと村のレストランでランチをしている間、トンカを連れて散歩をすることにしていた。末娘バッタは最後まで寂しそうな、困った顔をしていたが、田舎とは言えレストランである。皆が楽しい時を過ごしに来る場所に、トンカのような行儀を弁えないちびがうろちょろし、美味しいガレットの焼き上がる香りに声を上げ、チーズとハムと卵の得も言われぬ絶妙なバランスに舌鼓を打つたびにおねだりの声を上げられた日にはたまったものではない。トンカを叱る声さえ耳障りになってしまう。


パピーだって耐えられないわよ。せっかく楽しみにしているのだもの、ゆっくりとパピーとランチをしてね。ランチが終わった頃に戻ってくるから。


末娘バッタだって分かっている。ただ、この晴れ上がった美しい日に、のんびりと村のクレープ屋で、話のかみ合わないパピーと二人だけで食事をすることを、ちょっとだけ重荷に感じていることは確かだった。


にこっと笑顔になり、分かった、じゃあ行ってくるね。と、パピーのいるホームに入って行く彼女の後姿は立派だった。パパがお願いしたわけでもなく、本人の意思でこうしてパピーに会いに来ている。素晴らしい娘になったじゃないか。誇らしくもあり、嬉しくもあった。


こうして、トンカと「TROU D’ENFER」、いわゆる地獄谷に向かった。村を歩いていると、「TROU D’ENFER」と記されている標識を何度か目にしていて、気になっていた。


こんなおどろおどろしい名前は一度聞いたら忘れられない。そして、その名の通り、おどろおどろしい場所が、この島の海岸にはある。初めて連れて行ってもらった時のことを思い出す。夏にしか来たことがない筈だから、夏だったと思うのだが、冬の嵐のように潮風は音を立てて吹き乱れ、海はごうごうと波しぶきを上げ、岸壁の上から見下ろした海のうねりは、それはそれはこの世とは思えぬものだった。


あの嵐の日のような、おどろおどろしい景観を思い出し、あそこにもう一度行ってみたいと思ったのである。


「TROU D’ENFER」は村の中心から歩いて30分ほどのところにあるらしい。標識を頼りに歩いて行くと、うらぶれたカフェがあり、そこから一直線で海岸に抜け出るはずだった。カフェという看板があるから、カフェだと分かるので、実際に経営しているのかは分からなかった。ただ、黒字に赤で大きくカフェと記された看板は、島の健康的なイメージとはかけ離れていて、なんだか場末に来たような錯覚に陥るに十分だった。


その看板は何十年前も同じようにあって、その近くの家の二階でバッタ達の父親と、彼の島の仲間たちとカードをして遊んだことを思い出した。バッタ達の父親も、バッタ達同様、毎年夏をこの島で過ごし、同じように夏の間だけ遊びに来る同年齢の仲間たちと一緒につるんで遊んでいた。


カフェを過ぎると新しく建設されたと思われる立派な家が数軒続き、その後は恐らく以前からあるだろうと思われる家がばらばらと建っている中を真っすぐに歩いた。いや、歩こうとした。ここに来て、まさかの事態が発生してしまった。流石に日の出から歩き通しのトンカが、もう歩くのは嫌、疲れたよ、と主張し始め、駄々をこね始めたのである。


最初は首を優しく撫でて、声を掛けると、ついてきた。そのうちに、そんな甘いことでは動かなくなったので、バナナを一かけあげてみた。これもバナナがある時は上手くいったが、時間が過ぎると効かなくなってしまうのだった。


目的地についたら、お昼にしようとリュックに背負っていたバゲットをちびりちびりと上げることにした。なんとか、なんとか歩いてくれる。時々、自転車が追い越していく。太陽はじりじりと照り付け、参ったなあ、これは行きでしかなく、帰りもあるんだぞ、との思いが強くなる。


地べたにへたばってしまい、もう動きません、の姿勢を見せたので、意を決し抱えてみた。そうするとどうだろう。彼女の沽券にかかわるのか、ぱっと腕の間から抜け出し歩き始める。





そんなことを繰り返しながらも、のんびりと草を食む牛の集団に挨拶をし、鬱蒼と繁る林を過ぎた後で視界が広がり、突然海に出た。


しかしどうだろう。あっけない程の穏やかさではないか。名称による印象が強くて勝手に記憶が書き直されたのだろうか。








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