大学時代に知り合って学生結婚をした両親から、いや、厳密には母から、二人の出会うきっかけとなる事件について、何度も聞いていた。その話に欠かせない人物である父の友人Oさんについても、幼い時から聞かされていた気がする。当時、父の学生仲間で映画を撮影しようとなり、そのヒロイン役に母が抜擢され、Oさんから声が掛けられ、打ち合わせを重ねているうちに、カメラマン役の一人が、いつもファインダーから母を熱く見つめていることに気が付き始める。夏休み前のキャンパスで、バカンスにはどこぞの宿泊施設でバイトをする予定との母の話に、それなら俺の実家の温泉旅館にバイトにくればいいよ、とカメラを手にした父が誘い、といった展開。どうやら、結婚式では最初に声を掛けたのは僕です、本来なら新郎の席には僕がいた筈でした、と友人のOさんがスピーチして、会場は華やかな笑いに包まれたとか。
そのOさんがご夫婦で遊びにいらした時のことを鮮明に覚えている。6歳か7歳の時。むろん、相手の顔など全く覚えていないが、その時の会話で『ハンモック』の単語が夢のような響きを持って何度も出てきたことが忘れられない。Oさんは大学卒業と同時にブラジルに飛び立っており、現地で日系三世の女性と結婚していた。ブラジルは地球上で日本と丁度反対側にあって、一番遠い国とも聞かされた。あの頃、泥んこ遊びが大好きで、砂場があれば飛んで行って、じょうろに水をたっぷりと入れ、飽きずに泥団子を幾つも作ったっけ。ブラジルが地球の反対側にあると聞くと、本気で穴を掘って、ブラジルに届かないかと頑張った日々。
そのOさんご夫妻のサンパウロのご自宅に、丁度10年前に母が遊びに行っている。リオのカーニバルのビデオを幼いバッタ達に見せて一緒に踊りながら、いつかサンバを踊りにリオに連れて行ってあげるね、と話をしていたらしい(長女バッタの弁)。一方、私にはパンタナル大湿原の話をし、とぼけたバナナの嘴が愛らしいトッカーノ、燃えるような夕日、どこまでも透明で魚たちと一緒に泳ぐ川やボートでの滝下りといった体験を語ってくれた。「あの自然がなくなる前に、ぜひ皆に見せたいわ。」それが母の口癖だった。
そうして実現した今回のブラジル旅行。Oさんは10年前の体力はないよと少々心配気味。前回は全てご自分で運転した行程も、運転手を買って出る私の意見に対し、余りに遠距離であり、時間も限られているし、治安も良くないので、と飛行機の利用を提案してくださっていた。加えてお子さんがいない家庭なので、突然3人ものティーンとなる孫を連れての学生時代の友人の訪問に、どう対処してよいやらと、大いに不安もあったろうと思われる。私にしても最後にお会いした時は6歳か7歳の幼少時。その子供三人といっても、既に親の背を超えた大人サイズ。
「我々は 子供を育てたことが無いので、12歳から16歳の子供?をどう扱うかが、全くわかりません。子供なのか、大人なのか、、、、、、
とにかく、お互いに嫌な事は はっきり云って、意思疎通をはかる以外にないから、何でも遠慮なく云う事が大事です。 どうか、私を日本人と思わず、歳をとって、頑固なブラジル人と思ってください。」そんなメールが出発直前に届く。
すかさず返事を書く。
「私たちフランス組、見た目は日本人ですが、どうか私たちを日本人と思わず、生意気で、おしゃべりなフランス人と思って、到らないところあれば、どしどし、なんでも仰ってください。
いやぁ、Oさん。私も親ですが、ティーンの扱い方、わかりませ~ん。。。今回、初めて親しているもので、、、。こちらの都合で子供してもらったり、逆に子供じゃないんだからと怒ったり。」
そうして飛び立ったブラジル。12日の旅を終えて戻り、Oさんの奥様に教えて頂き、現地で調達した、ブラジル人なら誰でも選ぶとのコーヒーを楽しみながら、今、言葉が出てこない。
夢の様な時間。要所要所で購入した写真、Oさんからいただいた写真、私の携帯で撮影したもの、加えてフィルムで撮影したもの、などなど、沢山の写真を何度も見直しては、あの大自然の凄さに圧倒されてしまっている。
親の背よりも大きくなった生意気ティーンを連れ、母と一緒に5人で乗り込んだOさん宅の素晴らしさに一同感嘆し、嫌がる宿題でさえ、あのテラスやサロンで鳥の鳴き声を応援歌に、はかどったことは言う間でもない。あの自由な空間は過ごしやすく、ゆったりと時間が過ぎていくことに優雅さを覚えた。また、我儘にも、あれもこれもとフルーツやら野菜、お肉をおねだりし、毎回豪華な食事が食卓を飾った。密かに持ち帰ったカシュナッツの種、今、芽が出ないかと、二ヵ所に分けて見守っている。一方で貴重なマンジョカの枝、忘れてきてしまい、残念なことをしてしまった。アボカドはちょっと早過ぎたようながら、既に一つを味見してしまうも、まだ二つ残っており楽しみにしている。
それにしても、ある晩、思いもしなかったタイミングで父の若き頃の写真をお見せ頂き、びっくり仰天、感動。子供達にとっても初めて目にした学生時代のパピー(お爺ちゃん)。父はブラジルのOさんたちのところに遊びに行くことはできなかったが、きっと「こういう人生もあったよな。」と母に声を掛けたことだろうと思う。そして、「Oはすごいよな。立派にブラジルで人生を切り拓いているよ!」と。
サンパウロの郊外にあるOさんの友人の大邸宅(別荘)にお招きいただき、Oさんたちとはまた違った、ブラジルの富裕層の方々とお会いでき、貴重な体験をさせていただく。きらめくプール、ビリヤードにサッカーテーブルゲーム、卓球台が揃った遊技場もびっくりの離れ、豪華なダイニングキッチン、輝く果実がたわわになっている果樹園ばりの広大な庭園。ただ、片隅にひっそりとある管理人の方の住まいが、大きく胸に圧し掛かっていることは否めない。ブラジルは中流層が拡大し、貧困層の生活水準が顕著に改善しているとは言われているが、まだまだ貧富の格差が大きいことを目の当たりにした思いがする。
バッタ達もブラジル呆けで、庭の陰を指して「あっ!カピバラ!」なんてふざけて言っている。息子バッタは我が家の春の鳥たちのさえずりが控えめであると、ブラジルの元気な鳥のにぎやかさを懐かしんでいる。長女バッタはマンゴを恋しがり、「アラーラ」と空に呼びかけ、末娘バッタはトッカーノのキーホルダーを大切にしている。
いつ会っても元気な母。今回もボートでの滝下り、シュノーケルを使っての川遊び、馬乗り、魚釣りなど、大いに楽しむ。ピラニア釣りでは、誰よりも一番に釣れて船上で大喝采を浴びる。
それぞれの胸に、それぞれの思いを残し、今回の旅は終わり、新たな別の旅立ちにつながる。
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