真正面にどんと立ちはだかる、その雄姿に、思わず跪いてしまう程の畏敬を覚えた。朝の太陽が燦燦と輝く方向に正しく聳えており、その姿を上手く写真に撮ることは叶わなかった。じっと見つめられているようで、怖い程であった。
メンリッヒェン(Mânnlichen)からクライネ・シャイデック(Kleine Sheidegg)まで歩いて行こうとする人々は少ないのか、先程ロープウェイで運ばれた人々はどこに散らばっていったのか、不思議な程だった。真っ青に晴れ渡った空に、牛の姿は非常にスイスらしいじゃないかとファインダーに収める。そうこうしているうちに、煙のような雲が一面に出てきて、目の前のアイガー様の姿が消えては、ふとしたことで雲の切れ目ができて、ぬっと現れてはまた消えた。
いつしかアイガー様と呼んでいる自分がおかしかった。一目ぼれ、と言っていいのかもしれない。胸の高鳴りを押さえつつ、アイガー様の姿が少しでも存在感に満ち満ちた様子で撮れないかと、カメラ(携帯)から手が離せられなかった。
写真撮影に現を抜かしている私を余所に、母は踏みしめるような足取りで、しっかりと前進していくのだった。牛が道端にいようが、霧で視界が真っ白になろうとも。しかし、同時に、母もアイガーの漲る威力に魅せられていることは見て取れた。
親の背を見て子は育つ。
バッタ達に対して、なかなか相手にしてあげられないことが多かっただけに、そう自分に言い聞かせて彼らを育ててきたところがある。今こうして、母の背を見つめながら歩いていると、その凛とした姿勢、毅然とした態度に、改めてこちらまで背筋を正してしまうほどである。
実は非常に奥の深い言葉であって、放っておいても子は育つが、それでも、親の姿を子はちゃんと見ているのである。その意味では、だらしのない背中をバッタ達に見せてしまっていたなと、今更ながら思う。反面教師、という言葉があるのが、救いといえば救いか。
そして、我が母親の背中と言えば、あまりに威厳があって、いつまでたっても母は母であり、越えられない存在であったなとしみじみ思うのであった。と、同時に、その背は余りに愛おしく、思っていた以上にほっそりとしており、慌てて追い掛けて隣に並ぶ。
母とアイガーの雄姿を愛でつつ、思いっ切り新鮮な空気を吸い込む。
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