2023年5月27日土曜日

女 其の弐 « 記憶の選別 »

 




 彼女は簡単な夕食を終えて、ソファーに寛ぎながら放って置いたままの封筒のことを思った。前回深紅の封筒を受け取った時は丁度旧正月の時期で、今は台湾に住む双子の妹からの新年のカードかと思ってしまっていた。台湾では新年を赤で祝い、服装も赤色を身に着ける習慣がある。日本の神社でも朱色は使われているが、台湾の神社は落ち着いたトーンというよりは、南国らしい賑やかで晴れ晴れしい赤の使い方をする。台湾に最後に遊びに行ったのはいつだったろうか。彼女は仙草ゼリーや屋台での朝食を懐かしく思い起こしながら、封筒をびりりと開けた。妹はこんな風にアルファベットを書くのかと、ちょっと宛名の書き方が気になったが、あまり深くは考えなかった。さっとカードを取り出して、予想だにしていなかったバレンタインのカードであったことに、先ずはぎょっとした。え?


 カードの見開き部分は真っ白で、メッセージはない。右下に「X X」と記してあるだけだった。慌てて封筒を見直すと、切手が台湾のものではないことに漸く気が付いた。うっかりと隙を突かれたような、脇が甘いことを嘲笑されている様な変な気分になったことを覚えている。実のところ、一年前にも消印が英国からの差出人不明のカードをもらっていた。そうなると、この二年続けて誕生日に花束を贈ってくれる謎の人物と同一なのだろうと思わざるを得なかった。


 誕生日に花束が届いた時にも、嬉しいと同時に送り主が分からずに、お礼の言いようもなく、なんとなく消化不良の思いをしていた。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、死が二人を別つまで、愛し、敬い、慰め合い、共に助け合うことを誓った相手は、共通の夢に向かって手を取り合って進んでいると思っていたのに、早々に梯子を外して目の前から去って行ってしまっていた。クリスチャンでもない彼女が教会で式を挙げた背景には、彼の家族への敬愛の情があったからに他ならなく、「死が二人を別つまで」と期間を限定している点に疑問を挟み、では死後は愛することを止めるのかと真面目に聞いた彼女を、愛しそうにみつめた彼の様子が懐かしかった。つまり、懐かしいと思えるほど、時間が経過しており、その間、彼女も幾つかの恋もしていた。それでも、花束を贈ってくれた相手がすぐに脳裏に浮かぶことはなく、最近は子供たちの教育のことや、進路のことで時々電話で和やかに会話をするようになった別れた子供たちの父親に、ひょっとして花束を贈ってくれてはいないかと確認し、すまない、贈るべきだったね、と逆に恐縮されてしまった程だった。


 他に、なんとなくずるずると付き合いが続いてしまった相手がいたが、直感からして彼ではないと思われた。そうなると、誕生日の花も、今回手紙を送って来た相手なのかと思うと、彼女はなんだか大きな落とし穴に入り込んだような気がした。「なぜ今ごろ」ではなく、「なぜ私に」と思っている自分自身に戸惑っていた。確かに一時期、親密な仲になったことはあったが、正直なところ一緒に過ごした時間を思い出せないでいた。酷く相手に対して残酷なことをしている気がして、彼女は首を垂れた。


 彼女自身、逆の立場になったことがあり、自分が誰かに同じ仕打ちをしているという事実が余計身に応えた。大学時代、所属していた体育会で、三つ上の先輩に恋をしていた。下宿の物干し竿で、練習用にと先輩が貸してくれた手袋が明るい日差しを浴び、風になびいていた様を今でも思い出すことができた。電話で色々な話をしている時に、淡い思いを伝えたくて、それでも恥ずかしくて英語で告白をしてしまっていた。先輩は優しく笑いながら、今度一緒に食事をしよう、と言ってくれた。それは先輩の思いやりで、やんわりと断られてしまったのだったが、食事をしただけでも有頂天だったし、丁度その頃別の男子学生から声を掛けられ、恋仲になったこともあり、先輩との良好な関係は続いていた。それはお互いが就職し、結婚しても続き、大手銀行のロンドン支店の勤務になった先輩が、夫婦でパリのアパートに数日遊びにきたことも自然な成り行きだった。


 初めて会った先輩の妻となる人は、東京の女子高の出身で高卒で入社し、大卒で入社した先輩と同期とのことだった。小柄でとてもチャーミングで、シャイな様でいて芯がしっかりとしているように思われた。週日は二人が好きにパリ観光をし、週末は一緒にフォンテーヌブローに遊びに行った。バルビゾンでミレーのアトリエを見学したことも覚えている。お互い、未だ子供もいない若いカップル同士で、とても楽しい時間を過ごし、次に会う時は子供がいるかしら、と笑い合ったものだった。先輩とは、それが最後の別れとなってしまうとは、その時には知る由もなかった。先ず、先輩の方にすぐに男の子が生まれ、翌々年の年賀状には女の子の誕生の知らせがあった。その時に、女の子の名前が漢字こそ違え自分の名前と発音が一緒だったことに、彼女は肝をつぶしたものだった。当時は今ほど携帯を個人が使うことはなく、SNSに至っては全くと言っていい程普及していなかったから、先輩とは滅多に連絡を取らなくなってしまっていた。その後、香港支店勤務になり、すぐにニューヨーク支店勤務になったと聞いていた。まさに、エリート街道をまっしぐらと思われた。ところが、銀行にも再編の波が押し寄せ、他社のM&Aを手掛けていた銀行自身が合併を繰り返すことになり、大幅なリストラを実施せざるを得ない状況に追い込まれていった。ここからは、彼女の勝手な想像である。心優しい先輩は、エリート幹部として、これまで同じ釜の飯を食ってきて、一緒に汗と涙を流し合った同僚たちに解雇を宣告する立場にならざるを得ない自分を呪い、苦渋の選択を強いられながらもお上の命令に逆らうこともできず、解雇宣告を繰り返しているうちに心が壊れてしまったに違いない。OB会の大先輩から、ある日突然先輩の死を知らされることになった。「君の連絡先を年初の会で聞かれてね。」目の前が真っ暗になった。その年、忙しさにかまけ、連絡はおろか、年賀状も送っていなかったのだから。同期の仲間に電話をすると、大の男が電話口でおんおんと泣いていた。最初は寝耳に水の余りに急な悲報で、同期の仲間や先輩たちは、大病を患っていたのなら何故一言いってくれなかったのかと、病院に見舞いに駆け付けたのに、と信じられない思いと、哀しみと、怒りで、大騒ぎしたらしいことが分かった。そして、遺体に最後の挨拶も叶わずに、既に荼毘に付され、葬儀も家族だけでひっそりと終えてしまったことが判明し、まさかの真実が明らかになったとのことだった。


 その先輩の死から10年後ぐらいに、彼女は、一度東京で知り合い有志のOB会に参加したことがあった。偶々一時帰国していた時であったし、その時に、先輩の妻と残されたお子さんが会に参加すると聞いて、一言挨拶がしたいと思ったこともあった。久しぶりに会う先輩や仲間たちに挨拶をし、とりとめもなく話をしている時に、先輩の家族が会場に入ってきた。お久しぶりですと言うべきなのか、先ずはお悔やみなのか、最早それは口にすべきではないのか、迷いながらも挨拶を交わし、以前パリのアパートに遊びに来てもらったことや、フォンテーヌブローの森を散策した話をしたが、驚いたことに、先輩の妻は全く覚えていない、と返事をしたのだった。特に避けられているわけではなく、不自然なわけでもないが、同時に申し訳ないと思っているわけでもないことが、その後の会話でも判明した。先輩の妻は始終穏やかで、一緒に連れて来ていた長女、つまり発音が彼女の名前と一緒の女の子は既に大学生になっていて、快活で先輩の面影をほんのりと残していた。その時、会話の流れで、当日来ていない長男の話となり、先輩の妻がさらりと、ごく自然に、彼が障害を抱えていることを告げた。なんということだろう。この華奢で、今でも可憐な女性は、若くして夫に先立たれ、幼い子供二人抱えて、どんなに厳しく、苦しい人生を送って来たのだろうかと思わずにはいられなかった。もちろん、その考え自体が傲慢で、人の幸、不幸など、勝手に軽々と口にするものではないことは分かっていた。それでも、夫の家族が彼女を責めただろうことは、容易に想像がついた。言葉が続かなかった。若い頃の、ちょっとしたパリ旅行など覚えている筈がない。自ら進んで封印した記憶もあるだろうし、今を生きていくために、昔のことを思い出す時間も余裕もなかったことであろう。こうして、人間は覚えておくべき記憶を知らず知らずに選抜しているのか。たとえ同じ時間や空間を共有しても、記憶の共有はないものかと思い知り、愕然としたものだった。


 彼女は深くため息をつく。白い封筒は、不動産の広告に挟まれたままでひっそりとしており、何も告げてはくれていなかった。


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これまでの章 

男 其の壱  « 覚醒 »

女 其の壱 « 記憶の断片 »

男 其の弐 « 確信»



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