2023年5月28日日曜日

男 其の参 « 願望 »

 





 男は離婚の際に、一つだけ譲らなかったことがある。ロンドンのチェルシー地区にあるアパートの所有権は完全放棄するとしても、コッツウォルズにあるライムストーンのコテージは自分のものとして所有しておきたかった。海外出張が多く、ロンドンに帰って来ても若い愛人のところで過ごすことが多かった別れた妻は、二人の関係が悪化してからは滅多にコッツウォルズに行くことは無かった。それに反して、男は週末になるとコッツウォルズに赴いては、小さいながらも薔薇を中心とした庭の手入れをしたり、近くの小川沿いを散歩したりして過ごすことが多かった。一日中庭の木陰に陣取って、本を読んで過ごすこともあった、夕日を浴びてやわらかに甘く輝くライムストーンをぼんやりと眺めて、その温もりを楽しむ時間が愛おしかった。もともと都会っ子の元妻は、拍子抜けするほどにあっさりと、コッツウォルズのコテージの所有権を手渡してくれた。こうして男はリタイア後の居住地を確保し、今こうして薔薇の花香るコッツウォルズのコテージに住んでいる。


 男の両親は二人とも高校の教員をしていたが、父親は引退間近のある朝、脳梗塞であっけなく亡くなってしまっていた。母親は引退後も健康に恵まれ、あちこち旅行をしていたが、数年前に父親の元に旅立ってしまっていた。4歳下の妹は地元で中学の英語の教師となり、同僚の社会科の教師と結婚し、二人の男の子に恵まれていた。幼い時から兄を慕って、良く懐いていたので、男も妹のことを大切に思っていた。だから、彼女の旦那に初めて会った時は、風采が上がらず、物足りない男として映り、歯がゆさを覚えたが、何より妹が喜んでいるならと、二人を祝福したのだった。しかし妹の結婚生活は平坦ではなく、旦那は真面目さが高じて労働組合に引き抜かれ、活動家として豹変してしまったし、子供達は成長するにつれそれぞれに問題を起こし、妹を困らせた。それも高校生の頃までで、一人は旅先で出会ったタイ人の女性と恋に落ち、今ではオーストラリアに住んでいるし、もう一人はシステムエンジニアとして地元の中小企業を相手にしたコンサルティングファームに就職しており、それぞれに形こそ違うが、家を離れ、社会人として独り立ちしている。


 月に一、二回は、日曜のお昼を妹家族と一緒に過ごすことが多かったが、一度、旦那は組合の寄り合いで不在で、息子も地元のラグビークラブの試合があるとかで、不在であった時があった。家庭菜園で採れたかぼちゃのマッシュと、幼い時に母親が良く作ってくれた熱々のミートパイを頬張りながら、久しぶりに兄妹二人だけの食事となった。母親の味には及ばずとも、ミートパイの味付けが最高だったと妹を褒め、子供たちの近況を尋ねた。もはや子供たちの問題に心煩わされることなく、貴重な時間を割かれることもなく、どんなにかせいせいとし、晴れ晴れとした思いにあることだろうと男は思っていた。ところが意に反して、妹は最早自分の役割は必要ではなくなったことを思い知らされ、切ないと訴えるではないか。身体の中心に大きな空洞ができてしまったようだ、これから何のために生きていくのか分からない。自分の務めは終わったのに、と泣きだされ、男はぞっとした。あれほど以前は自分の時間がないと泣きごとを言い、子供が引き起こす騒動に巻き込まれては、心身ともに困憊していたのに。その度に相談を受け、悩み事を聞いてあげてきたではないか。一番魅力がなくて、みっともないことは、自分が如何に辛いかと嘆いて同情を引こうとすることだ。だから、嘆くことはやめろ。人間は底のところで、本当は強くて、滅多なことではくたばらない。そう言ってやると、妹はさびしそうに、あなたには子供がいないから分からないのよ、とつぶやいた。


 その後しばらくして久しぶりに妹を訪れると、妹は熱々のシェファーズパイを作って歓待してくれた。そして、最近地元の野鳥の会に入ったこと、ノルディックウォーキングも始めたことを嬉しそうに語ってくれた。快活に笑う妹を見たのは久しぶりだった。話をする時にも、こんなに大声を出すものだったのかと、驚いてしまう程だった。男は思った。やはり、人間は根底のところで図太く出来ていると。滅多なことではくたばらない。


 男は、15年前に出会って忽然と姿を消した運命の女性のことを思った。一度も会ったことはないが、彼女の子供達もそれぞれに独り立ちしている頃だろう。妹のように子育て終了後の喪失感に苛まれてはいやしないだろうか。彼女が別れた旦那のところで過ごしている子供達のことを思い、これまで築いてきた家族が崩壊してしまったことを思って泣き崩れた時、前回妹に発したことと同じ言葉を投げ掛けたことがあった。彼女は、急に泣き止むと、一言も発せずにその場を離れて行ってしまった。なんて礼儀知らずの失礼な態度だろう、その時はそう思った。それでも、怒りで立ち直れるのであれば、それに越したことは無いとも思った。彼女にもう一度会いたい。強く、しなやかに、立ち直って、たおやかに微笑んでいる様子を見たいと思った。



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これまでの章 

男 其の壱  « 覚醒 »

女 其の壱 « 記憶の断片 »

男 其の弐 « 確信»

女 其の弐 « 記憶の選別 »


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