2023年6月1日木曜日

男 其の伍 « 懐古 »

 





 明け方に入ってから霧のように細かい雨が降ったのだろうか。地面はしっとりとしていて、原っぱの芝生は柔らかく濡れそぼっていた。雨は音を消し、痕跡を消し去る。男の家に泥棒が入った日も雨降りの夜だった。同時に雨には独特のにおいがある、そう男は思った。地下鉄に乗っている時に、停車駅で雨のにおいを運んでくる乗客がいて、何度かはっとさせられた。雨上がりの道は土の香りがするし、森の中はいつも以上に草木の香りに満ち満ちている。


 男は小鳥たちの囀りの中、朝霞にけぶる小川に沿っての小径を散歩していた。男の思考は、雨のにおいから昨夜自宅のオーディオルームで聴いたレコードの演奏の間を彷徨った。


 男は、かつて栄華を誇った大英帝国や最強といわれた英海軍のことをむやみやたらに崇める人々を馬鹿にしていた。過去の栄光にしがみつく生き方しかできない人々を、憐れにさえ思っていた。進取の気性に富むことを良しとしていて、ロンドンを俯瞰できるロンドンアイ建設の際にも、賛否両論あったが、男は大賛成だった。携帯電話も仲間の中ではいち早く手にしたし、新しいモデルが発表されると、試してみたくなりすぐに買い替えたものだった。ハイテク分野では新しい技術が猛スピードで開発され、実用化されていった。その恩恵を享受できる時代に生きていることが嬉しかった。


 しかし、試乗会で電気自動車に乗ってアクセルを踏んだ時は、エンジン音が体に伝わってこないことに不満を覚えたのは確かだった。エンジン音に耳を澄ませながら、ギアチェンジをする醍醐味が得られないのであれば、最早自分で運転する意味はないのではないかとさえ思えた。ガソリン車と電気自動車は似て非なるものであり、まさに林檎と梨を比較するような馬鹿げた話だと思った。その時、男の頭の中で、何かがかちりと音を立てた。そして、昨夜も同様に、彼はかちりという音を聞いたのであった。


 男は自分でもピアノを演奏をするが、音楽を聴くことをこよなく愛していた。自宅にはグランドピアノがある部屋をオーディオルームとして、こだわりを持って厳選したスピーカーをしつらえていた。壁全体には本とCDがびっしりと並べてあり、わずかな空間にCDプレイヤーを置いていた。学生時代に愛用していたレコードプレイヤーは隅に追いやられ、埃を被っていたのだが、先日妹に会った際、母親が大切にしていたレコードを数枚手渡さていたことを思い出し、昨夜は久しぶりにレコードに針を落として、独り静かに母を偲んでの演奏会となった。レコードの針の音、録音時のノイズ、そういったいわば雑音が昔は嫌で仕方なかったのだが、昨夜は不思議なことに、柔らかで、温かな音として心に響いたのであった。気が付くと、男は静かに泣いていた。レコードは防音対策をしているスタジオでの録音でも、虫の音も入ってしまえば、レコードに針を置く時の音も聞こえてしまう。一方、CDの場合はノイズ処理が可能で、非可聴音域は全て切り捨ててしまうので、演奏のみの音を取り出して聴くことができるようになっている。一見、CDの方が優れているように思われ、男は実際、昨夜まではそう思っていた。それが、同じ演奏でもCDの時とは違って、思いの外魂が揺さぶられるほどに感動したのだから、男自身が驚いていた。耳で聴こえていない音域も全て録音されて流れてくるレコードの方が、身体全体で音楽を楽しむことができる、と言う事だろうか。


 一見効率的に切り捨て、改善に改善を加え、優れた物に達したと思われていたものが、実は大切なものをも切り捨ててしまい、総合的に魂に訴えないものとなってしまったのではなかろうか。かちり、彼の頭でまた音がした。早く彼女に会いたかった。膝を突き合わせ、彼女の体温を感じられる距離で話をしたかった。彼は天を仰いだ。散歩を始めた時は青空がのぞいていたが、今ではどんよりとした雲が低く空を覆い、小糠雨が静かに彼の額に降り注いだ。



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これまでの章 

男 其の壱  « 覚醒 »

女 其の壱 « 記憶の断片 »

男 其の弐 « 確信»

女 其の弐 « 記憶の選別 »

男 其の参 « 願望 »

女 其の参 « 真実 »

男 其の肆 « 再生»

女 其の肆 « 渦潮»



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