朝、眼鏡を手にしてグラスが酷く汚れていることに気が付いた。雨にでも降られて、そのままにしてしまった様な状態。前日のことを考えるが、特に思い至ることがない。眼鏡をしたままシャワーを浴びることもなかったし、と思いながら、軽く水洗いをする。
今でもよく覚えているが、小学4年生の時の視力検査で右目がちっとも見えずに、視力が0.4しかなかったと判明した時の衝撃といったらなかった。その日に友達とドッジボールをして、右目にボールの直撃をくらっていた。それを必死に教師に伝え、特殊事情があったことを考慮に入れてもらおうとした。テストで悪い点を採ったように、いや、それ以上に、身体的欠陥を指摘されたようで、ひどく焦った。左目の視力は1.5であったから、なおさらのことだった。
翌年の視力検査でも右目の視力は戻らず、心は鉛の様に重く、何も考えられなかった。
身体検査の結果は当然家庭に伝えられ、眼科に連れて行かれ、眼鏡を作ってもらった。左目の視力は1.5と問題なかったので、通常の生活には全く問題がなかったのだが、右目を使わないことでの影響や、左目ばかり酷使することでの影響を考慮すれば、眼鏡で視力矯正する方が良いとのことだった。
しかし、生活上全く問題がなく、眼鏡をしたからといって何かが良く見えるわけでもないので、せっかく買ってもらった眼鏡も、ほぼ使われずにランドセルの中で眠っていることが多かった。
そして、中学に入ると、家の勉強机の引き出しに入れて置きっ放しにしてしまった。その後、高校に入っても、オーストラリアに行っても、大学に入っても、左目の視力は常に1.5だったので一切眼鏡のお世話にはならなかった。
それがどうして、どの段階でそうなったのかはすっかり忘れてしまったが、コンタクトレンズのお世話になるようになっていった。左目の視力が徐々に弱くなってしまったことが最大の要因ではある。
そのうち視力の良さを誇っていた友人達が、ちらほらと眼鏡のお世話になっているのを見て、近眼であることは、そう悪いことでもないのだな、と思うようになっていった。
それでも、昨年あたりから照明を落とした、雰囲気のあるレストランのメニューが読みにくくなり、これまでは商品の説明書や能書き、パッケージに記載されている文言、あらゆる文字を読むことが趣味だったのだが、それが億劫になり、寝る前の読書も辛くなってきた。そうなると選択肢は、読むか読まないか、となる。
従い、遠近両用眼鏡を誂えることになったのだが、そこに至るにあたって驚いたことがある。なんと眼科でコンタクトレンズを使うこともできると言われ、遠近両用のコンタクトレンズがあるのかと、技術革新なるものを肌で感じた一瞬だったが、いや、さすがにそうではなかった。発想の転換といえるだろうか。片方のレンズを遠視用に、もう片方を近視用に使うことで遠近両用とする、ということだったのだから椅子から転げ落ちそうになった。
ちょっと、ちょっと、ちょっと。小学生の頃に、右目が近視だということで、左目しか使わないで生きていくことの弊害を眼科医や眼鏡屋さんから教えられたのではなかったのか。体に良いもの、悪いもの、体に良いこと、悪いこと、そんなものは実際のところ主観が大いに入るものなのであろう。分かっちゃいるけど、の世界といえようか。
そうなると、多くの情報を得て、自分の感性で取捨選択をし、これが今の自分には最善、と思う道を進むしかないのであろう。と、ここまで偉そうに書きながら、実のところ、小学生の時に両親から買ってもらった眼鏡を使わずに、ランドセルの底に眠らせておいたことに思い至り、人間とは感性の動物であり、誰から言われずともちゃんとそうして来たのではないか、と笑いたくなってしまった。
そんなこんなで近視用眼鏡、遠近両用眼鏡、読書の時専用眼鏡が揃うことになった。ここで漸く文頭の場面に戻ることになる。そう、朝掛けた眼鏡は以前に作った近視用眼鏡で、驚くなかれ、半日過ぎて漸く眼鏡のフレームを確認して自分の間違いに気が付いたのである。なんともずぼらな話。春も近い、ということか。
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