今朝目を覚まして窓の外を見ると、霧の中。裸眼で見ているから視界がぼやけているのだろうか。
小学生の頃に読んだ本を思い出す。あれは図書館で借りたのか。しかし、図書館なんてあったのだろうか。中学時代の図書館は思い出せるが、小学校に図書館があったのか記憶が定かではない。クラスの後ろに数冊本が立てかけてあって、いつでも好きに読めたように覚えている。学級文庫、というものか。
なんだか記憶まで霧の中に入ってしまった気がする。
今では毎日の日課となっている植木鉢のマンゴと杏、水栽培のサツマイモ、そしてアボカドの種を庭に出してやる。朝日を体いっぱいにあびると活力が体中に漲るように、きっと彼ら植物にとっても最高のエネルギー源になるだろうと慮ってのことだが、実際のところどうだろう。
朝日にはぎらぎらとする日中の太陽や、やわらかな夕陽とは違った、神聖で生の根源を思わせる何かがある気がする。バッタ達には物好きだと笑われようと、友人たちには変わっているねと言われようと、皆がのんびりとするバカンスや週末であっても、どうしても朝日を拝みたくなってしまうのは日本人としての習性なのだろうか。
日本の戦後の教育はGHQによりゆがめられたものだと最近知るに至ったが、それでも小学一年生の時の国語の教科書は今でも暗誦できる程好きだった。小学生という響きが好きで、一年生という自分が誇らしかったのだと思う。毎日、国語の教科書を大きな声で読んだものだった。その嬉しさは高校までも続き、4月の始業式が毎年待ち遠しくて、新しい教科書は新しい香りがして好きだった。家に帰ると国語の教科書はその日に読んでしまうのも毎年のことだった。中学になると英語の教科書が加わり、毎年4月の始業式には国語と英語の教科書を読んだことを覚えている。
小学一年生の国語の教科書。
あさ あさ あかるいあさ
うみが ひかる
かわが ひかる
やねが ひかる
おはよう おはよう
さあ いこう
みんななかよし さあ いこう
おはようございます
なんてきらきらと希望に輝くメッセージなんだろう。
そして、中学の頃に山村暮鳥に出会う
一日のはじめに於て
みろ
太陽はいま世界のはてから上るところだ
此の朝霧の街と家家
此の朝あけの鋭い光線
まづ木木の梢のてつぺんからして
新鮮な意識をあたへる
みづみづしい空よ
からすがなき
すすめがなき
ひとびとはかつきりと目ざめ
おきいで
そして言ふ
お早う
お早うと
よろこびと力に満ちてはつきりと
おお此の言葉は生きてゐる!
何という美しいことばであらう
此の言葉の中に人間の純さはいまも残つてゐる
此の言葉より人間の一日ははじまる
なんだか霧の中にいたはずなのに、記憶の糸がするするとかっきりとした目覚めに導いてくれた。気が付くと、外の霧もすっかりと晴れ上がり青空がのぞいている。
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