小鳥の囀りに導かれるかのように、毎日の日課になっている散歩に出た男は、考え事をしていたので、気が付くと森の入り口まで来ていた。時間に束縛される日々は、もう遠い過去のこと。特に予定があるわけではない。先日の雨で土はぬかるんでいるかもしれないが、とりとめもなく湧き出てくる思考が漸くまとまりかけていた時でもあったので、このまま森の中に入ってみることにした。そうして森に一歩足を踏み入れると、深緑の下草の絨毯が遠くまで広がり、一斉に芽吹き始めた樹木の枝が午後の太陽の光を浴びて新緑の世界を作っていて、男は思わず息を呑んだ。
どんなに思考が停止していようと、どんなに落ち込んでいようと、時は巡り、こうして季節は移ろいゆく。そんな当たり前のことを目の当たりにし、大自然の中における自分の存在がいかにちっぽけなものかに思い至り、男は一人、声を立てて笑ってしまった。そして、この思いを誰かと共有したいとの熱い思いが込み上げてきた。彼女なら、何というだろうか。
すると、ふと、ある思い出が男の頭に浮かんだ。
幼い時に近所の友達と小川で遊んでいて、カエルに成長する手前の、前足と後ろ足が生えたおまじゃくしを見つけて、大喜びでバケツに入れて家に持ち帰ったことがあった。家に帰って、おたまじゃくしが入ったバケツを子供部屋に持ち込み、得意げに妹に見せびらかした。母親は気持ち悪がったが、妹は羨ましがって自分も欲しいとねだったものだった。ところが、夕方帰宅した父親がそれを見て、成長したおたまじゃくしなどではなくイモリだと言うので状況は一転した。母親が我が意を得たと言わんばかりに、家の中を這われたらかなわないと、すぐに小川に返してくるようにと冷たく言い放ったのであった。男は、これまで愛情さえも抱いていた生き物が、突如別の名前を与えられた途端に、グロテスクで奇妙な存在に思われ、触るのさえもおぞましく感じたことを今でも明確に覚えている。初夏とはいえ、外は夕闇が既に迫って来ていて、肌寒ささえ感じられた。その中を、腕を伸ばしてバケツをできるだけ遠くに持ち、泣きながら走って小川まで行き、バケツの中身を乱暴に放り出し、回れ右をして後ろを振り返りもせずに、出来るだけ早く家に戻った。ちゃんと小川に返したはずなのに、それから数日は、家の中にイモリが潜んでいて、床や壁を這っているのではないかと、びくびくして過ごしたものだった。
突然頭を支配した幼少時代の思い出に、男は泣かんばかりに動揺してしまった。男の中では彼女の存在は、正に女神のようになってしまっているが、果たして、彼女の中での男の存在はどうだろうかと、そのことに今初めて男は思い至ったのであった。自分自身は変わっていないのに、勝手に成長したおたまじゃくしと思われ、もてはやされ、それがイモリという名称を与えられた途端、おぞましいものとして厭われる。なんだか自分が、あの時の生き物になってしまったように思われた。そして、男は優しい声一つかけてやらずに、手の平を返したかのように夜の暗い小川に放り出してしまった生き物のことを思い、後悔の念と懺悔の念に大いにかられたのであった。
その時、一陣の風が吹き、下草は真っ白な葉裏を見せ、一瞬にして世界が変わったかのようになった。ハンチング帽は風に吹き飛んだが、男はそれを追うことをせず、風に吹かれるがままになっていた。どう取り繕っても、自分は自分でしかない。たとえ名前を変えようとも、真新しい衣服に身を包もうとも、この新緑の世界に佇む自分は変えようがない。それでいいじゃないか。
男は手袋を外して、陽だまりに両手をかざした。そろそろ大きくなり過ぎた庭の月桂樹を、なんとかしないとと思い始めた。そうして、おもむろにハンチング帽を拾って被り直すと、今来た道をゆっくりと引き返していった。
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