思った通り、男からはすぐに返事がきた。小切手についての明確な回答はなかったが、「また友達になりたいと思っている。これまでの人生で君ほどの友人には巡り合えていない。昔の様に連絡を取り合いたい。」と書いてあって、そこに男の孤独を読み取り、彼女は暫し呆然としてしまった。
いかに甘美な過去を持っていたとしても、人は過去に埋もれて生きていくことはできない。過去の思い出に縛られてしまい、手放すことをしないと、新しい何かをつかむことはできない。これ程単純で当たり前なことはない。しかし、頭で理解していても実際に行動するとなると、なかなかうまくはいかないことを、彼女は身をもって知っていた。彼女は以前、妻子ある男と深い仲になったことがあった。相手が家庭を持っていることは知っていたが、既に別居中であったし、出会い系サイトで知り合い、半年の交際期間で結婚したことを酷く拙速な決定だったと後悔していて、離婚を考えていると真剣な顔で言う男に狡賢さは感じらなかった。恐らく、その時点で男は嘘をついていなかったであろう。丁度冬枯れた森が芽吹き始める頃に二人は出会い、春爛漫な時期を経て、いつまでたっても日が暮れることのない夏を共に過ごし、誰をも詩人にするパリの秋を寄り添いながら枯れ葉を踏みしめつつ、関係を深めていった。街の至る所でノエルのイルミネーションが輝き始める頃には、彼女は男との人生を真剣に考え始めるようになっていた。ところが、ノエルを間近に控えたある晩、浮かない顔をしながら男は、小学生の息子から電話をもらったこと、ノエルのプレゼントはいらないが、パパに家に帰って来て欲しいと言われことを、ぽつりぽつりと語り始めた。小学生の息子が父親に自発的に電話をし、そんなことを言うとは考えにくく、恐らくは母親が仕向けたのだろうとは思われたが、意気消沈している男に対して、そんなことなら早く家に行ってあげればいいと言うしかなかった。そうして男は、すっかり冷めた関係にある妻と二人の子供の待つ家に帰って行った。その時に、彼女は男と綺麗さっぱりと別れてしまえば良かったのだが、家に戻った男との関係を愚かにも続けてしまったのである。何かを手放すことで、新しい局面に突入し、新たな展開が待ち受けているだろうことは、頭では分かっていても、彼との関係を手放すことができずにいた。
人生において、すべてにはタイミングというものがあり、どう抗っても定められた運命は変えようがないのではあるまいか。押し寄せる波に逆らって、もがきながら泳ぐより、荒波に身を任せつつ体力を温存し、態勢を整え、次にうねるような大波が来た時に、その波のエネルギーを上手く利用し、龍の様に天空まで駆け上がれば、良いではあるまいか。自分の人生を振り返り、彼女はそんな風に思うようになってきていた。自己防衛の思想と言われれば、それまでではあるが、物事を肯定的に捉えることは、生きていく上で非常に楽な道であることは確かであった。一方で、渦中にあっては、その悟りをうまく活かすことができないことも、人間の愚かさであり、だからこその、愛しさでもあった。
過去の思い出を未だに引きずり、こうして連絡をしてくる男を憐れに思わずにはいられなかった。幸せな思い出のみを抱えながら、人は生きていくことは出来ない。生きる目的を失えば、死を待つことしかなくなってしまう。
返事をぐずぐずと出しあぐねていたところ、男から「返事がないが、何か気に障ることでも書いてしまったのだろうか。」という趣旨のメールが届いた。そうこうしているうちに今度は、満開の桜の大木のポストカードが送られてきた。庭の桜があまりに見事だったので、と書いてあったので、どうやら男が撮影したらしかった。
Loveliest of trees, the cherry now
Is hung with bloom along the bough,
And stands about the woodland ride
Wearing white for Eastertide.
Now, of my threescore years and ten,
Twenty will not come again,
And take from seventy springs a score,
It only leaves me fifty more.
And since to look at things in bloom
Fifty springs are little room,
About the woodlands I will go
To see the cherry hung with snow.
その時彼女は、自分が新たな波にもまれ始めたことを知る由もなかった。
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