「君に朝食を作って食べさせてあげたいよ。」
それが意味することなんて、当時ちっとも考えずに、お料理好きで博識な大先輩の朝食って、どんなだろう、と本気で思ったもの。
会社の大先輩から、こんなこと言われちゃったよ、と面白半分で兄に伝えたら、その兄のビックリした反応に、こちらの方がびっくりしたことを今でも覚えている。
大先輩も大先輩。当時私が勤める商社のプラント専門100%子会社に出向されていて、そこの副社長。未だ新米であった私のカンボジア出張にご一緒頂き、その時の代表団の長として導いていただいた。
あのカンボジア出張は、良きにしろ、悪しきにしろ、多くの出来事が凝縮され、今にして思えば、ひょっとしたら私の人生の分岐点になったのではあるまいか、と思うほどの体験であった。
未だ日本政府と国交が正式に結ばれていない時代。いや、カンボジアという国自体が国連の暫定統治下にあった時の頃。
ガイドをしてくれた現地の人は、連れて行ってくれた博物館で、そこに母と妹の頭蓋骨があると指差し、私はどう答えて良いか分からず、余りの悲惨な現実に打ちのめされていた。会う人、会う人が、ポルポト政権の犠牲者であった。それは過去ではなく、現実。
医療機器のコンサルの方とご一緒したが、彼は終日、現地の医療機関を見て回り、余りの悲惨さに、その日の夕食が喉を通らないほどだった。
フランスの資金で建設されたカンボジアーナという立派なホテルが、プノンペンでの宿泊地。当時、未だ建設進行中。これからの新国家建設に向けての海外からの利用者の需要を見込んでのこと。旅行者の前に、インフラ面で復興の為充実させねばならないことは多くあった。
大きなレストランホールで夕食をとり終えると、そこはすぐにダンスホールに様変わり。怪しげにライトが点滅し、いつの間にか現れた現地の少女や女性たちが外国人客の周りをしなやかに踊りだす。
確か材木関連で、日本のビジネスマンがいらしていたか。その50代と思しき方が、武勇伝のように、どのようにお金を握らせれば、少女が幼い胸を触らせてくれるか、と語っていたのを耳にし、正直うんざりしていた。
現実。
私の出張のお仲間達も、どうやら夜はそれぞれにお愉しみがあるらしい。私も伊達に商社に勤めてはいない。良いではないか。どうぞ、存分にお楽しみあれ。私は先に失礼します。
そんな態度を一貫として取らせていただいていた。当時、未だ20代の前半。
ラオスでもそうであったが、カンボジアも旧仏植民地。優秀な政府の高官達、これからの国家を牛耳る人々は皆フランス留学組。フランス語が達者。英語は世界の言語、なんて思っていたが、そんな考えが一転する経験であった。そうして、復興に向けて、国連、世銀の人間達が活躍している姿を目の当たりにする。そんな彼らは、英語は勿論、仏語も堪能。下手をすると現地の言葉も操る。
世界を舞台にビジネス界で生きるには、英語のほかに、仏語を習得する必要がある、と、あの時、心の奥に刻んでしまったのだと思う。そして、世銀に対する熱烈な憧れも、あの時、しっかりと植えつけられた。
大先輩を長とする、我ら代表団も、取り敢えずは現地の要請、要望を調査し、世銀・国連の復興計画の概要を把握しようと努力し、何らかの手応えを得て、一週間余りの出張日程を無事終了。
バンコクで最後の晩餐、となる。
私は最初から遠慮していた。男性陣が如何にバンコクで羽を伸ばし愉しむか、知らないわけではなかった。
ところが、私も仲間、と、その大先輩が主張する。仲間同士で晩餐をしないでどうする、と。
海鮮料理に舌鼓を打ち、では、私はこれにて失礼、とすれば、やっぱり引き留められる。大先輩が俺の歌を聞け、との仰せ。
そこまで仰るのであれば、と、バンコクのカラオケにご一緒する。他の男性達は、じゃあ、と割り切って威勢良く彼らの馴染みのカラオケ屋に。
20代の女性には衝撃的、いや、きっと今だって同じ感慨を持つに違いない。
きらびやかなガラス張りのルーム。そこに番号札をつけた女性達がずらっと並んでいる。女性の格好がどんなものであったか、正直、今では忘れてしまっている。
衝撃的であったことは、女性が番号札をつけていること。そして、男性が番号で女性を選ぶこと。
その光景を目の当たりにし、まるで奴隷市場にいるかの錯覚に陥り、吐気がする。女性として、いたたまれない。
怒りに震えていたのだと思う。帰ります、と主張する私。慌てる大先輩。他の男性陣は、好みの女性を既に選び、ご満悦で自分の世界に入ってしまっている。
兎に角、俺の歌を聴いてくれ。一曲、歌わせてくれ。そしたら、帰ろう。
大先輩は、女性を選んでいなかった。お店の人には、私がお相手と思われているらしいことも、憤慨の理由の一つでもあった。
呆然と立ちながら、拍手もせずにイライラしている私に、お店のお姉さん達は、ちょっとアンタ、旦那に拍手ぐらいするものよ、と目配せしてくる。
大先輩の歌が終わるや、曲の終わりまで聞かずに、脱兎の如く駆け出す。
と、彼も一緒に走ってくる。おい、そっちじゃない、こっちだぞ、と。
気がつくと手を引かれていた。怒り心頭。
それでも、ホテルのエレベーターホールでお互い上品に、おやすみなさいの挨拶をして、別れる。
その方がアルジェの支店長として赴任されるときに、私の所属する室の皆で、会社の食堂にて壮行会を催した。海外赴任される方の壮行会、一時帰国された方の歓迎会をすることは、私が所属する部、室の慣わしでもあった。
お酒に強い方でもあったし、多分、雰囲気的にもビールを皆随分飲んだのではなかろうか。取り敢えずはお開きとの流れになり、二次会はカラオケだろうと思いながらも、がやがやしている、その隙にちょっとトイレに。慌てて戻ってくると、なんと、そこに、その方お一人で待っていらした。
「無粋な奴らには帰ってもらったよ。」
え?大好きなカラオケには?
「皇居の花見でもしようじゃないか。」
面くらいつつも、断る理由もすぐに出てこず、夜の花見をご一緒する。これから単身でアルジェリアの地に行かれる方への、それはそれで立派な馬の餞ではないか、と思ってしまった。
多分、今の私と同じぐらいの年齢か。もうちょっと上であったか。
あの時、どんな話をしたのか、してもらったのか、余り覚えていない。驚くほど金曜の夜の皇居は花見客で賑わっていたことが思い出されるのみ。
あいつらには負けたくない。
そんなことを話されていたようにも思われる。今思えば、40代半ばでのアルジェリア赴任。これからの会社人生に対する思い、これまでの越し方に思いを馳せ、社会人になりたての私を相手に、熱き思いを語りたくなったのではあるまいか。
そういえば、時々、奇妙なことを言っては私を仰天させていた。
「君は惚れた人間はいるか?」
え?惚れている人ですか?ドギマギしている間に、私の答えも聞かずに、
「まさか、あいつじゃないだろうね。」
とくる。
「君のところの室長だよ。あいつだったら、俺は叶わない。」
そうして、男として、如何に、その室長に惚れているか、そうして、人間としてどうしても叶わないと思っている、と熱く語りだす。
奇想天外とはこのこと。
くどいようだが私は当時20代の前半。40代の上司に惚れるなんて感情が起ころうはずがない。
追いかけたわけではないが、タイミング的には追いかけた格好となる私のフランス留学。当時の寮の部屋の電話に、突然アルジェから電話が入り驚いたものだ。
それから、大先輩はフランス会社の社長となられるのだが、悲しいかな、そうお会いする機会もなく、もう最後にお会いして何年も経ってしまっている。
今日、2年ぶりにランチをした方が、フランス会社のお勤めなので、ひょっとしたらご存知かと近況を伺ってみる。
「あら、お知り合いだったの?」 「今年の7月にね、お亡くなりになったのよ。」
え?
え?
え?
まさか、あちらに行ってしまったのですか?一言、仰ってくださればよかったのに。行くぞ、と。
未だ、60代じゃないですか。急ぎ過ぎです。
大先輩が惚れていた、当時の私の室長は、実は10年も前に先にあちらに行かれてしまっている。。。
ああ、きっと、今頃、お二人で一献傾けていらっしゃるのでしょうね。
大先輩のニックネームはウエチュー。当時の商社は、海外事務所にテレックスを使って交信していたが、アフリカや中東に仕事で駆け回っている大先輩に、彼の上司が、テレックスを打つ。
Uechu “Où es-tu ?”
ウエチュー ウ エ チュ(お前どこにいる)?
心よりご冥福をお祈り申し上げます
くっかばらさんの驚きがこちらにも伝わってきました。。。
返信削除うえちゅー う え ちゅ ?
クッカバラさんの心の声 ですね。
合掌
あかうなさん
返信削除慟哭、、、です