2023年12月4日月曜日

夢のエベレスト街道トレッキング~ Day 1 ルクラ(チベット仏教の世界に)






世界一危険な空港としてその名を馳せるルクラだが、確かに滑走路は驚く程短く、着陸時にはジェットコースターに乗っている様な気分で、気が付くと目の前に座っている相棒の座席にしがみついていた。



もともとジェットコースターの類は子供の頃から苦手だった。ところが、相棒ときたら遊園地が大好き、ジェットコースターが大好きときている。一緒にいて、つられて駆け足で乗り物の列に並び、実際に自分の番が来ると、半泣き状態で「ごめんなさい。間違えました。降ろしてください。」と小さな震える声で言ったものだった。


勿論、大声で降ろしてもらう程の勇気もなかった。従って、興奮して大喜びの相棒の隣で、目を瞑って早く終わることだけを祈っていた。そんな子供だった。ブランコならば良いかと、回転ブランコに乗ったことがあったが、あんな怖いものは、もうごめんだと後悔したものだった。


コーヒーカップに乗れば、目が回って気持ちが悪くなるし、遊園地に行っても良いことは何もなかった。だから、無理をして皆と一緒に乗り物に乗ることは止めよう、とある時期に決心し、遊園地の呪縛から解放されたのだった。



実際のところ、ラメチャップ―ルクラ間は非常に穏やかな操縦で、着陸も一瞬だけどきりとしただけで、滑走路が短距離だからなのか、ピタリと機体はすぐに停止した。パイロットの運転技術は素晴らしく、喝采を送りたい程だった。




果たして、ルクラの空は紺碧色をしていた。なんて空気が澄んでいるのだろう。それがルクラの第一印象だった。正面には、頂上に雪を頂く山が圧倒的な威厳を持って迫っていた。ビスターレ、ビスターレで、先ずはロッジで軽く腹ごしらえをして、8キロ程先のパクディンまでトレッキングすることになっていた。



空港には、9日間の行程の間、我々の荷物を持ってくれるポーターさん2人が待っていてくれた。一人は経験豊かな中年の男性で、Rajさんとも何回も一緒に仕事をしたことがあるとのこと。もう一人は初々しい18歳の青年で、丁度学校が休みで、ポーターの仕事は初めてとのことだった。




二人とも小柄ながらも、力持ちで、忍者のような身のこなしをし、常に素足にビーサンだった。ルクラから徒歩で二日程のところにある村の出身で、二人は同郷で、お互いの家が見える距離に住んでいながらも、訪ねるには、歩いて一時間程度かかるとのことだった。


ここでは、移動手段は基本徒歩しかない。もちろん、馬やロバなど動物に乗ることもできようし、ヘリコプターも限定的ながら飛んではいる。それでも、日用品、食糧、ガスは勿論のこと、建築資材、タイル、瓦、果てはドアやガラス、そして洗面所なども、すべて人、馬、ヤク、ゾッキョ、牛、ロバなどが村々に運んで行かねばならない。






ガイドブックなどで読んでいて、予備知識としてはあった筈なのに、実際に目にすると、その厳然たる事実に驚愕し、声が出なかった。荷物を運ぶ人々はたいていが男性で、青年から中年にかけてが一番多いが、時には高齢と思しき男性が何十箱もの段ボールを背負っている姿も見かけた。また、10代と思しき若き女性陣の姿もあった。荷物を背負っている人が後ろに迫っている場合は、トレッカー達は彼らに道を譲るのであった。


同様に、ゾッキョやヤクたちの隊列が重い荷を背負って近づいてきた時も、さっと道を開けてあげるに限る。彼らは前に障害物があろうが容赦なく黙々と前進するので、ガスボンベなどをぶつけられた日には、その痛さで泣くことになる。いや、それよりも、重い荷を背負って黙々と運ぶ彼らに対して畏敬の念を抱かずにはいられず、道を譲ることは、彼らに対する礼儀でもあろう。






色とりどりのマントラの旗がたなびいている中を、トレッカー達と連なって歩いて行く。一回りさせると、経文を一通り読み終えたのと同じ功徳があるとされるチベット仏教のマニ車が物珍しかったが、その後エベレスト街道を進むにつれ、大小さまざまな大きさとさまざまな数のものを目にした。同様に、びっちりと経文が刻まれたマニ石も大小さまざまなものを目にした。


こうして我々、Ammaこと母、クリスタルボールの奏者であり毎朝タロット占いもするので、私が勝手に名付けた巫女こと相棒、神秘なるヒマラヤのガイドのRajさん、そしてカメラマンの私の4人は、チベット仏教の世界、聖なるヒマラヤ山脈にと足を踏み入れて行ったのであった。





---------------------------------------------------------------------
夢のエベレスト街道トレッキング(これまでの章)

0 件のコメント:

コメントを投稿