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日々の出来事を時に楽しく、時に真剣に、大いに心ゆくまで語ることで、自分の時間を生きていることを実感していきたい、そんな風に思っています。そんなクッカバラの囀りを、時々皆さんのお耳にもお届けし、思いを共感、共有できたら、などと夢見たいなことを願っています。さて快い囀りと響くでしょうか、喧騒と響くでしょうか。。。
ルクラ入りした時には、ラメチャップから飛行機に乗っており、そのラメチャップにはカトマンズから車で半日かけて行った。帰りも、あのアップダウンの激しい山道を車で行くのかと思うと気が重かったが、なんとカトマンズまでの便が手配されていた。
体調の思わしくないAmmaのことを思えば、ひたすら感謝しかなかった。社長と連絡を取って、変更したと言っていたが、それもあってRajさんは前日に空港まで出向いたのかもしれなかった。これでカトマンズには午前中に戻り、ホテルでゆっくりすることが出来ると、ほっとした。
ポーターさん達とは前夜に別れの挨拶をしたし、空港は目と鼻の先とはいえ、ちょっとした距離を全部の荷物を背負って行かねばなるまい、と覚悟をしていた。Rajさんに手伝ってもらうとしても、さすがに全部は無理であろう。
そう思っていたら、いつものようにすっと二人のポーターさんが現われ、我々の荷物を持ってくれた。本来なら、もう彼らの仕事は終わっているのに、未だ暗い朝の6時に、相変わらずの裸足にビーサンで駆けつけてくれてた。しかも、チェックインの手続きを先にしてくれるという。ダンニャバード。
そして相変わらず我々は、ビスターレ、ビスターレで、空港に向かった。ナムチェの土産物の店主が言っていた通り、ラメチャップからルクラに来る時には、持ち物の重量にうるさかったのに、ルクラからの便では、特に荷物の重量検査はなかった。
相棒が、目を輝かせて私に合図をする。空港の開け放たれた窓から、山頂がオレンジ色に輝き始めている様子が見て取れた。ちょっと外に出れば、良い写真が撮れるだろう。が、未だ通関手続きさえしていない我々が、ランナウェイに出て行くわけにはいかなかった。
いや、ここはお願いをしてしまおう。すると、一枚だけですよ、と税関の職員が私が外に出るのを見逃してくれた。さっと身を翻し、一枚と言わずにシャッターを切り、また何食わぬ顔で戻って来た。その時でさえ、私の脳はエベレスト街道の旅の最終段階にあることをしっかりと捉えてはいなかった。
毎日があまりに濃密であったからかもしれない。すぐに高山病に襲われ、回復すると相棒の体調が気遣われ、そして今はAmmaの様子が気になっており、感傷的なっている暇など、ないに等しかったこともあろう。
加えて、今回は高山病でやむなく予定を変更せざるを得なかったが、次回こそエベレストベースキャンプまでたどり着きたい、との思いがあることも確かだった。山また山に会わず、人また人に会う、とはアフリカの諺であるが、正にその通りで、単純明快なことで山に会いに人が来ればいいのである。
微熱のせいもあるのだろうし、服用した解熱剤の効果もあったのだろう。Ammaは常に朦朧としていて、気怠そうだった。空港の待合室で買った珈琲も、一口飲んだだけで、カップを手に寝入ってしまいそうだった。
正直なところ、大いに戸惑ってしまってはいた。Ammaの年齢を考えれば、無理を押して予定を決行することは、果たして良いのだろうか、と。しかし、年齢がどうだと言うのだろう。人それぞれ個性があるように、平均的な数値で人を判断することは馬鹿げてはいまいか。
何歳になったから、こうすべきではないとか、逆にこうすべきであるとか、そんな杓子定規な価値観は、全くもって意味がないと、Amma自身が今回体現してくれたのではあるまいか。
Rajさんが、出来たら右側の座席に乗って下さいとアドバイスをしてくれたが、我々が飛行機に乗り込んだ時には、右側は一人分を除いて全て埋まっていた。Ammaに座ってもらうと、左側の最後の列に、相棒、私、そしてRajさんが続いた。
確かに、右手に地球上の最高峰のヒマラヤ山脈が神々しく現われ、皆窓に食い入るように眺めていた。我も我もとシャッターを切る音が聞こえてきそうだった。そんな喧騒とは無関係に、正に我関せずといった超越した様子で、Ammaがぐっすりと寝入っていて、その様子がかえって心地よかった。
そう。AmmaにはAmmaのペースがあり、ビスターレ、ビスターレで、大いに結構なことではあるまいか。我々はこうして、再び早朝のカトマンズ空港に降り立ったのであった。
ルクラのロッジで、未だ微熱があって寝ている相棒ではあったが、どうしても連絡をしなければならない方たちにメッセージを書いていた。部屋ではwifiが怪しげだったので、食堂に行って確実に送信して欲しいとお願いをされた。
お湯を貰いに行ったり、wifiコードを確認に行ったり、メッセージ送信に行ったりと、3階にある部屋と一階の食堂を随分と往復した。wifiコードを入力するも、どうもうまくいかない。試行錯誤していると、ガイドさんと思しき男性が、壁に貼ってあるwifiコードを示してくれた。そうなのよね。これで試しているのだけど、上手くいかないのよね。
大勢が使っているからだろうか。時々アクセスできたかと思うと、すぐにアンテナが消えてしまう。Rajさんは未だ空港に手続きで行っているのだろうか。間違いなく明日の便に乗れるのかしら。そんな思いでいた。と、「ディディ」と呼びかけられた。ひどくドキリとした。Rajさんだった。
彼は日本語がとても上手だったので、よく日本語で会話をしたのだが、同じぐらい英語も流暢で、気が付くと英語で話をしていることもあった。あの時は何語で話をしたのだろうか。そして、何について話しをしたのだろうか。ちっとも覚えてはいないのだが、気が付くと二人で達磨ストーブを囲んで立ち話をしていた。
すると、ロッジのご主人が現れて、何やら笑いながらネパール語でRajさんに話しかけた。Rajさんも笑って応じて、未だ火がついていないストーブなのに、まるで燃え盛るストーブみたいにしているじゃないか、と揶揄われたと教えてくれた。
そして薪をくべて火をつけてくれる時に、私に向かって、ほれ、こいつも一緒に燃やしてしまおうよ、と言ってRajさんのことを引っ張った。咄嗟にRajさんの腕を取り、「ダメです。私、まだエベレストベースキャンプに行っていないんです。Rajさんに連れて行ってもらうことになっているんです。」
「He is the best guide in the world.」彼は世界で最高のガイドなんです。そう言うと、ご主人はにやりと笑った。彼が?まさか!何を言っているんだい。「Rajさんとは9日間しか一緒に過ごしていませんが、彼が最高のガイドであることは9日間で十分に分かりました。」
ご主人は「へええ、そうかい。俺なんざ20年近く知っているけど、そんな風には思っちゃいなかったよ。」とRajさんの腕を叩きながら可笑しそうに言うではないか。「それなら、ご主人が言うところのbest guideは誰なんです。よかったら是非ご紹介ください。」そう応じたら、楽しくてしょうがないと言った風に笑っている。
Rajさんが、「ご主人にとってのbest guideとは、本人のことなんですよ」と言うから、今度は私の方が大うけで、お腹を抱えて笑ってしまった。ちょっとぽっちゃりとした小柄なご主人は、ロッジのカウンターでトレッカーやガイド相手にのんびり対応する姿がぴったりで、エベレスト街道を歩く姿は想像しにくかったし、ましてやガイドとしてトレッカーを引き連れて行く姿は考えにくかった。
しばらく三人で、まだ火がついたばかりの冷たい達磨ストーブを囲み、笑いに笑い合った。
二人のポーターさんがロッジに来て執り行う慰労会には、是非ともAmmaにも相棒にも来て欲しいと、Rajさんから何回も念を押された。あれだけ皆の体調を気遣い、特にAmmaのことはとても大事に思ってくれているRajさんが言うのだから、この儀式はポーターさんにとっても、Rajさんにとっても重要なものであると思われた。
旅程を無事に終えたことを皆で祝福し、乾杯し合うという。部屋で昏々と寝入っているAmmaのことを思ったが、確かに、ネパールという地に於いて、Ammaが顔を出して感謝の言葉を述べて、お礼のチップを手渡すことの重みと意味合いは、日本と同様、或いはそれ以上のものがあるようであった。同時に、旅の参加者全員が出席することの重みもひしひしと感ぜずにはいられなかった。その辺は、Ammaも相棒も良く分かってくれるであろう。
夕刻までには、もう少し時間があった。Rajさんのところに、青年がにこやかに挨拶に来ると、Rajさんは私にバイです、と紹介してくれた。いわゆる舎弟ということである。ではRajさんのディディである私にとっても、バイよね。と言うと、青年は嬉しそうに私のことをディディと呼んで話を始めた。
なんだか高校の留学時代に戻ったようで、嬉しくもあり懐かしかった。当時、気が合う仲間とは兄弟や姉妹の関係になり、my sisiterとかmy brotherと呼び合っていた。その意味では、私にはインドネシアとタイに3人ずつの姉がいて、スリランカには一人の兄がいる。彼らとは今でも、年末年始の挨拶を欠かさず交わしている。
ルクラのロッジは、初めてルクラ入りした時に寄った場所だった。食堂には午後の便を待つトレッカー達で賑わっていて、のんびりとした空気が漂っていた。空港の目と鼻の先なので、飛行機の発着による騒音に悩まされるかと思ったが、二度ほど賑やかになっただけで、その後はひっそり閑としてしまった。
Ammaは発熱していたし、相棒は脱水症状にならないかが心配だった。二人とも身体を休めるために、早速ベッドにもぐりこんだ。すぐにボトルに熱湯をもらい、ポカリスエットを作った。この時はRajさんにお願いしたので、ボトルのお湯は熱々だった。湯気の立つポカリスエットをAmmaと相棒のコップに並々と注いだ。
その後、Rajさんは翌日のフライトの確認で空港に行ってしまったので、厨房に声を掛けてボトルに熱湯を入れてもらったのだが、ぬる湯どころか、冷え冷えとしていたので愕然としてしまった。甘く見られたものだ、と思ったが、彼らにしてみれば一度熱した水を再度熱するためのガスが勿体ないのだろう。それに、食事時でもなければ需要がないので、残っていた薬缶の水をお湯として支給することもやむを得ないか。
とは言え、食後に「熱い、熱いお湯を」とわざわざ強調してお願いした時にも、ボトルのお湯はぬるかった。Rajさんは、熱々の薬缶を選んでボトルにお湯を入れてくれていたに違いない。我々が気が付いていないRajさんの隠れたサービスが、どれだけあるのだろうかと思わずにはいられない一件だった。
さて、一階の厨房と3階の部屋とを何回か往復している間に、Ammaも相棒も寝入ったようだった。私はと言えば、これまでの行程で使ったお金の記載に漏れがないか、夕方にポーターさん達とのお疲れ会の時に手渡すチップの額に間違いはないか、何度か確認をしていた。
今回の旅のバイブルはご多聞に漏れず地球の歩き方なのだが、最新版とはいえ流石に日々変遷するインフレ率や為替の動きを反映できているわけではない。カトマンズ市内のミネラルウォーターの値段や、珈琲の値段が随分と高くなっていることに気が付いていた。従い、当然ながらチップの額も上方修正する必要があった。
全額ルピーとはせずに、米ドルを交えることにしたので、今度は為替レートを確認し、換算する必要があった。通常なら簡単に計算してしまうのだが、ベッドに転がり、ノートとボールペンだけで計算するとなると、なんだか間違いをしそうで、じっくりと時間を掛けた。
そうこうしているうちに、相棒が唸っていることに気が付いた。確かパクディンのロッジでも、夜中唸っていて起こしたことがあった。相棒の腕を寝袋の上から掴み、おい、おい、大丈夫かい、とちょっと乱暴にゆすってみる。
「えっ?あっ?」うなされていたようだから、起こしたわよ、と告げると、ああ、ありがとう、と掠れ声が返って来た。すると金縛りに合っていたのだと、世にも恐ろしいことを言い出した。昼寝をし過ぎてしまった時に、私自身も何度か経験しているが、あの妄想と入り混じった金縛りのことかと思った。
ところが、ところが、相棒の場合は、そんな生半可なことではなかったのである。高山病であったり、不慮の事故であったりと要因は様々ながら、目的地まで到着できなかったトレッカー達の無念の声が、幾重にも幾重にもなって相棒に襲ってくると言うではないか。
ちょっ、ちょっとお。
君を怖がらせるのも本意ではないので、これ以上は言わないけれど、と言われた日には、それこそ相棒を寝袋ごと抱きかかえてしまった。なんとまあ。クリスタルボールで宇宙からのエネルギーをも取り込み、大気の波動を音の粒として共振させて鳴り響かせ、人々の魂に語り掛ける、そんなことをしていると、通常は聞こえないことまで耳に入ってしまうようになるのだろうか。
おい、相棒よ。そんなに遠くまで行かんでおくれよ。そうは言っても、君はその世界に足を踏み入れ、今水を得た魚の様に生き生きとしている。君の奏でる音色、君の紡ぐ言葉に心癒される人々がいることも知っているよ。
そして、それこそ生まれた時から、いやAmmaのお腹に入った瞬間から我々は一緒なのだもの。君がどんなことをしても、君を君として受け入れるだけだし、君の幸せは私の幸せでもあるよ。
だけど、どうか自分の身体をもうちょっと、労わって欲しい。魂を削りながら、研ぎ澄まされた世界に入り込んでいるのではないかと心配だよ。
幼い時のように、ずうっと相棒の手を握っていたかった。