2015年5月31日日曜日

羊歯の涙








価値観の違いと片付ければ良いのか。

音の粒を宇宙に響かせることなく、息子バッタのヴァイオリンはケースに仕舞われてしまう。「えっ?未だ練習これからじゃない!」という師の声に「父が来たので、今日は帰ります。」と答えている息子バッタの声が聞こえる。

確かに、練習は16時には終わると伝えてあった。良かったら前の生徒と交換してもらって早目にしようか、と言うと、いつもの16時半と変わらないじゃないか、と返事がある。だから、そんなに気にしていなかった。息子バッタには、先に練習を見てもらうように告げていた。そんな彼に、会った途端、ヴァイオリンの師の4歳になる末っ子君がヴァイオリンを見て欲しいとねだってしまう。それなら、と庭に出て見てあげている息子バッタ。微笑ましい光景に、つい写真を撮ってしまう。

暫くすると足音が聞こえ、父親が円満の笑みで登場するが、息子バッタの練習が始まってもいないと知るや、激怒。それならそうと、何故事前に教えてくれないのか。いや、もっともな話。でも、こんなに良いお天気で、子供達は、こんなに楽しそうにしている。ちょっとばかり、いいじゃない。

怒りを隠すこともなく、足早に去って行く。そして、SMS。「一体、何時に終わるんだ?」
今の時間から30分後を記した。息子バッタが泣きそうな顔で「ママ、いいんだよ。僕、もう行かなきゃ。こんな時のパパは酷いんだ。あとあとまでひどく怒るんだよ。」
すぐに返事がくる。「馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」

どうしてだろう。
息子バッタは夏のコンサートで、オーケストラの第一ヴァイオリンを任されていると告げたばかりなのに。だから、練習は彼の為に必要なんだと。どうして、彼の授業が始まっていないなら、彼の演奏を聞いていこうと思わないのか。

いつだって、そう。ヴァイオリン(音楽)は父親にとっては、彼がバッタ達と過ごす時間の障害物でしかない。

涙が止まらない。
ヴァイオリンは彼にとって、大切なんだよ。
私のためじゃない。


いつか彼に分かる時がくるのだろうか。










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2015年5月29日金曜日

卯の花








じっくり考えると真実にたどり着くべくヒントは出ていた。
それを見落としていた。
というより、軽視していたと言えよう。

真実は一つではない。
真相は玉虫色。

幾つもの真実の前で立体的な真相が浮かび上がる。
今まで見えてこなかったものが、急に色を持って迫ってくる。
これまでの意味合いが、別の色合いを放ち始める。

戸惑うよりも、受け止めよう。
こうまでも未来は過去を常に変えているのか。

卯の花が今年も純白の蕾を膨らませている。










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2015年5月26日火曜日

さくらんぼの唇







「明日は第二ヴァイオリンになったからと伝えておいて。」
夜中のSMS。末娘バッタへのメッセージ。これまで第二ヴァイオリンとして練習をしてきたが、土曜の段階で第一ヴァイオリンだと言われ、週末に必死に練習し、月曜もダンスの練習の後へとへとなりながらも、練習していた彼女のことを思う。ちょっと待ってよ。そうならそうと、何故夕方の段階で教えてくれなかったのか。一体どう言えばいいのか。翌朝は6時半に出発するというので、6時起床。

ヴァイオリンのクラスに、バカロレアでオプションに音楽を選ぶ仲間がいて、彼女がRameauのガボットを弾くというので、末娘バッタが応援隊として選ばれていた。他にも別の高校生が応援隊にいたが、自分たちの試験と重なり突然参加ができなくなっていた。そこで助っ人が登場。二年前にバカロレアを取得している先輩仲間。末娘バッタが唯一ダンスの練習の為に参加できなかった最終調整の場で、彼女が第一ヴァイオリンで加勢することになったらしい。

まあ、いわば応援隊。だから、メインの彼女にとってベストであれば、それにこしたことはない。そう末娘バッタに諭すか。

朝の6時に、末娘バッタを起こしながら、そっと囁く。今日は第二ヴァイオリンをお願いするって、と。すると、眠気眼で返事が返ってくる。「そんなことになると思っていたよ。」と。そして「でも、第二ヴァイオリンのパート、全然練習していないよ。」

思ってもみなかった意外な反応。気にしていない筈はない。
それなのに、このしなやかさ。

午前10時頃にSMSが届く。
「素晴らしかったよ。音が響きあって最高だった。」
慌ててヴァイオリンの師、マリにその旨SMSを送る。
すぐに返事が返ってくる。
「子供たちの素晴らしさに感動して泣いたわ。彼らのこと、とっても誇りに思う。」
そう、末娘バッタが傷つかないかと心配してくれていたマリ。でも、そんな心配を吹き飛ばすような明るさで、最高の演奏をしたと感激のメッセージを送った末娘バッタ。私の方こそ泣きそうになる。


夜8時。外は未だ昼間の明るさ。一緒に庭に出てさくらんぼを摘む。末娘バッタがぽろりとこぼす。「多分、去年だったらショックだったと思う。でも、今日はそんな風には感じなかったよ。だって、あの演奏はバックを受ける彼女のためなのだもの。彼女のために皆で演奏しなきゃって思ったよ。そして、本当に素晴らしい演奏ができたんだよ。」

さくらんぼのような唇で楽しそうに話してくれる。いつまでも続く彼女のおしゃべりは、さくらんぼを狙って姦しい鳥たちの賑やかな歌い声と一緒に青空に吸い込まれていく。







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2015年5月23日土曜日

コクリコの輝き




「ママはちっとも僕の話を聞いてくれない!誰も僕の相談に乗ってくれない!」
息子バッタの悲痛な叫び。
「ちょっと待ってよ。今まで、口を挟むなって言っていたのは誰よ!」長女バッタが応じる。

話を聞かなかったわけでもなく、相談に乗らなかったわけでもない。できたら、彼が考えを変えることを待っていたのである。思考停止状態に陥った母親に代わり、長女バッタがテキパキと息子バッタの話を聞き、判断し、父親に電話を入れている。「なんでパパに相談しなかったのよ。」と言いながら。「僕からパパには言えなかったんだよ。」息子バッタのか細い声が聞こえる。何故?パパは大喜びで相談に乗るだろう。そうして、こう言うに決まっている。「そうか、分かったよ。じゃあ、パリにおいで、」と。

息子バッタが高校を変えることになれば、パリの高校に行くことになり、それは父親と一緒に暮らすことを意味する。それが彼にとってどうなのか、と考える前に、彼が我が家から出て行ってしまうことなど耐えられないと思ってしまっていた。父親との生活を選ぶのか。ならば、これまでの数年は何であったのだろう。

親であれば、子供の自立を願うものである。巣立っていく子達に誇らしげにエールを送るものである。

この夏には長女バッタが我が家から巣立っていくことになっている。それさえ考えただけでオロオロしているのに、今度は息子バッタまで出て行ってしまうのか。

今の高校はフランスでも高水準にあり、他に移る必要などあろうものか。少しでも苦手なことがあると、それを克服しようとせずに、回避しようとする。息子バッタの悪い癖ではないか。そんなことで、これからの人生どうする。

そう思う一方で、確かに今の状況は彼にとって大きな足枷であり、分かっていながら、続けさせるのも酷ではないかとの思いもある。今の高校だけが高校ではない。

母親というよりは、私個人のエゴが息子バッタを引き留めようとしていることに気が付いていた。しかし、どうしろというのか。私は、息子バッタが父親の下で生活していくことを思うだけで辛いのである。彼は未だ羽ばたくまでに時間がある筈じゃあなかったか。あと二年間、親元で暮らすのであれば、なぜ母親の私のところではないのか。

シャイの息子バッタと思っていたが、母親が当てにならないと分かったからか、自分で転校先をサイトで調べ、高校の進路指導室に相談に行き各種情報を揃えてきた。どうやら本気らしい。

悶々としている時に、学生としてフランスに来た時からの恩人でもあり、友人でもある方からメールが入る。バッタ達のことも赤ちゃんの頃から良く知っている。すぐに電話をし、状況を説明すると、そんなこと分かっていたことだと言われてしまう。そして、親元を離れてパリに来た貴女がそんなことを言っているのが、面白いね、と言われてしまう。

その後彼女からメールが届く。
ただただ健常に生まれて問題なく健康に育ってくれて、法的はもちろん倫理的道徳的に問題を起こさない子供に育てるというのはそれだけでものすごいことで、その上学業ができて望む職に就けたら感謝感激で、自分の近くにいるかどうかはほんの些細なことに思えるんだけど。。。子供達は輝いて羽ばたいてくれるようだし、何よりではありませんか。

そうだよね、と思う。分かっている。
心の準備が全くできていなくて慌てていた。

そうして、我が身を振り返る。そう言えば、いつだって外に出ていくことばかり夢見ていた。大海に出ないと、井戸の蛙で終わっちゃうと思っていた。早く世界に飛び出したと願っていた。父が亡くなって、一人になった母を残していくことに、これっぽっちも思いが至らなかった。親との時間よりも、これから自分が世界を相手に過ごす時間に胸をときめかせた。若くて、前しか見ていなくて、何でも出来ると信じていた。

あの時の自分に息子バッタが重なる。
よし。
もう大丈夫。彼を応援しよう。

息子バッタがネットでダウンロードした願書の親の署名欄に、サインする。
どんな結果になったとしても、今、新たな挑戦を願って自分から動いている息子バッタにエールを送ろう。

コクリコに太陽の日が降り注ぎ、朱色が透明に光っている。









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2015年5月16日土曜日

今日と言う日を迎えて






何か問題が発生しても、問題が山積みされていても、
絶体絶命のピンチと呼吸困難に陥っても
驚くべきことに、いつだって解決法は見つかる。

いや、そんなおこがましいことは言うまい。
何かに手助けされるが如く、上手くことが運んでくれる。

愚鈍ながらも真摯な思いで、まっしぐらに突き進んでいくと、
トンネルの先に明かりが突然現れるが如く。

さあ、
今日この日を迎えられたことに素直に感謝しよう。








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2015年5月9日土曜日

カキツバタ






ママ、具合が悪いの。午後の授業出れない。

携帯の向こうから、蚊の鳴くような声が聞こえる。長女バッタ。一体何事か。
学校から欠席の連絡を受けて初めて我が子の欠席を知ることが多い高校生。どうやら、教務課に連絡さえしてあれば、特にお咎めはなく、しかも、親のサインも必要ないと言われ、かなり面食らったもの。勝手に体調が悪いからと親に無断で授業を欠席をする娘を叱ったこともあったが、フランスの高校生は自己管理もしっかりしているのかと呆れつつも感心したものである。が、一体どうしたのだろう。

だって、本当は授業に出たいんだけど、本当に気持ち悪くて。

泣きそうな声が返ってくる。これは、どうやら、かなり具合が悪いらしい。心細くなったのか。案の定、学校に特に連絡する必要はないと言う。それなら、家に帰って寝ていてね、と告げて電話を切る。

仕事をしていると、子供の病気は辛い。バッタ達が幼い時も、我が家の辞書には病気という言葉はない、と宣言し、子供たちの体調管理には気を遣ったもの。バッタ達が目覚める前に家を出る為、オフィスに彼らから電話をもらった時には溜息が出たもの。彼らも一人でベッドで寝ているなんて心細いことはよっぽどでないとしたくない。すごすご学校に行ったことも何度もあった筈。

早く帰らないと、と思いながらも、その日もいつもと同じような時間帯になってしまう。もうすぐ9時になろうとしているのに、夏が近くなっているお蔭で外は未だ明るい。我が家も未だお昼のような空気が漂っている。キッチンは閑散としており、声を掛けるとレポートの宿題に取り組んでいた末娘バッタが大慌てて出てくる。息子バッタときたら、のんびりお風呂を楽しんでいるらしい。そうか、我が家は受験生の長女バッタに夕食をいつもお願いしていたのか。



長女バッタの部屋に行くと、真っ赤な顔で寝込んでいる。どうやら熱があるらしい。しかもかなりの高熱。あちゃ。

翌朝も39度の熱。お医者さんに電話をして予約し、自分で行ってもらえるかな。そう言うと、泣きそうな声で無理だと言う。腰が痛くて歩けないし、バスにも乗れない。ママ、連れて行って、と蚊の鳴く声。

随分な弱気。いつもは親なんて必要ないよ、の勢いなのに。この夏からは親元を離れちゃうんだぞ。一人で大丈夫か。それより、長女バッタがいなくなったら、我が家の夕食はどうなるんだ。しかし、受験生に夕食を任せている親って、結構世の中、多いんだろうな、と思ってみる。持ちつ持たれつ。

菖蒲色のカキツバタの花が直立し空を仰いでいる。













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2015年5月8日金曜日

アペロ、タパスそしてお喋りの夕べ







タパスの用意なら何とか準備できたよ。
だから、アペロ、タパスそしてお喋りの夕べ。それでいい?

そんなメールが舞い込む。最近こそ日曜日に午前中なら開店するスーパーが見られ、祝日も例外ではなくなってきたが、それでも、流石にメーデーの日はどこもシャッターを下ろしていると思われた。そんな日の誘い。

タパス。それなら、タパスっぽいデザートを用意しよう。
冷蔵庫に転がっているグレープフルーツを使ってのムース。バナナゼリーなんかどうだろうか。ミラベル酒のゼリーも悪くあるまい。






勿論、純白、薄紫、濃紫のリラの花束も忘れずに。

招待されているのが、私一人なのか、聞こうかとも思った。心の準備ではないが、デザートの準備というものがあるだろう。でも、何人いても、二人だけでも、いいではないかと思い直す。

アペロなら、何時に行けばいいのか。これも聞きそびれてしまう。いつ行っても、きっと歓迎してくれるだろう。


もう何度目かになる道をリラの馥郁たる香に包まれて驀進する。一年ぶりになるのだろうか。いつもの笑顔で迎えてくれる。キッチンのテーブルにはサラミ、オニオンペースト、オリーブ、ヒヨコ豆、サラダ、オムレツ、ピザなどが盛り付けられた小ぶりなお皿が所狭しと並んでいる。


海外からのオファーの話。どのような条件なのか、新たな環境について詳細に語ってくれる。生き生きと嬉しそう。最初は乗り気ではなかった家族も、今では賛成しているらしく、良かったなと心から思う。今度は私の仕事について聞かれる。今は、話したくないの、と言いながらも、ついつい、語り始め、気が付くと、大演説をしてしまっている。それから、今のフランス社会の持つ問題点を語り合いながら、久々にこんな話ができて嬉しくなってしまう。立ち止まらずに駆け足で、がむしゃらに走っていて、こういった時間を持ててこなかったことに、気が付く。


別れ際に、ポツリと彼が漏らす。未だ最終契約を交わしていない段階であり、今の職場には伝えていないので、どうもやりにくい、と。既に彼の心は新天地での新たな生活で一杯なのだ。しかし、今のポストだって、そう簡単に辞められるものではないだろう。後任者の選定や引継ぎだってあるだろう。そう言うと、いつものにんまり顔で「Personne n'est irremplaçable!」と笑う。平たく言えば、誰かの代わりが見つからないことなどない、ということ。

貴方は唯一無二よ!

がしっと抱きつかれ、キスが舞い降りる。

8月の引越までに、また会えるといいけれど。ひょっとしたら、これが最後かな。一瞬頭を過ぎる。

晩春の夜は暖かく、リラの香りが漂っている。







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2015年5月3日日曜日

純白の鈴の連なり




雨が降らなかったら問題なく、雨が降っても運転席の前が作動すれば問題ないと、半年以上もほったらかしにしていた助手席の前のワイパーを新しく付ける。どうやらビスが揺るんで外れてしまったようだが、ガレージのおじさんは誰かに盗まれたと主張する。

「17ユーロもするんですよ。ワイパーに17ユーロも払うなら、通りに置いてある車から失敬しようと皆するんですよ。」

どうなんだろう。17ユーロの為に不法行為を働く方が割に合わないのではないか。単に、何かの関係でビスが緩んでしまったのに違いない。

うまい具合に、夕刻小雨が降りだす。ワイパーを作動すると一瞬にして目の前がすっきりと開ける。慣れとは恐ろしいもので、片側しか見えない状態にちっとも違和感なく運転をしていたが、なんと危険なことであったか。無論、毎日運転する状態であれば、すぐさま新しいワイパーを付けていた筈。

ちょっとしたことながら、修繕したことが素直に嬉しい。

先月は地下の水漏れが全く違う理由で二回あり、そんな時はいっそのこと引っ越ししてしまおうと思ってしまう。それも今ではちゃんと修理されている。


庭には純白の鈴を連ねた可憐な鈴蘭。
幸せがあまねくもたらされますように。









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2015年5月1日金曜日

立ち上るリラの香




ここ暫く髪を切りたいと思いながら、なかなか実現できないでいた。朝起きた時ぐらいしか、鏡で自分の顔を見ないことから、髪への関心は一日で一回。ところが、最近は髪が長くなったのでコートを着る時にも、髪の存在を知らされる。そろそろ切りたい。ばっさりと、肩のところまで。いや、もっとショートにしてもいいかもしれない。ただ、変な拘りがあって、鋏のみでカットして欲しいと思ったり、誰にでもお願いできないと思ったり。

以前、未だ末娘バッタがこの世に産まれていなかった頃、偶然入ったヘアサロンのお兄さんが、素晴らしい手をしていた。彼の手にかかると、髪の毛たちが嬉しがっていることが、本当に伝わってきた。当時楽しみにしていたテレビのシリーズの話になり、そのヒロインの髪型が好きだと言うと、きっと似合いますよ、と変身させてくれたことがある。あれは、単に好きな女優の話をしただけであったのに。まさか同じ髪型にしてくれるとは思わず、びっくり。しかも、その髪型が似合っていると、友人たちからも随分評判になった(と、思っているのは本人だけかもしれないが)。ところが、ある日突然、彼はお店を辞めてしまっていた。どこに行ったのか教えてもらえず、別の人が担当してくれた。

どこかで彼が天才的な鋏使いを披露しているのでは、と思っている。ひょっとしたら出会えるのでは、とも思っている。それが実現していないだけ。

どこにいるのかも知らない天才テクニシャンのことを思うより、とにかく、この髪をなんとかしよう。そう思い立つ。そもそも、長い髪をカットするだけなら、鋏しか使わないだろう。ふらっと入ってしまおう。

急ぎの仕事は頭がもっと明瞭な時でないとできない種類のもの。夜、家で熟慮して仕上げようと思い社を出る。ところが、閉店一時間前であるのに、会社近くのお店は、どこも受けてくれない。予約なしで行く方が悪いのか。そうだ、オペラ近辺ならあるだろう。携帯で探そうとして、ふとメールが入っていることに気がつく。ぱっと斜め読みをし、心が躍り出す。友人から。エキサイティングな新たな仕事のオファーが外国から来ており、恐らく受けることになると思う。ついては、ぜひ週末にランチかディナに招待したいが、都合はどうか。

慌てて21時閉店の店を調べる。二、三軒、見つかる。そうなると、すぐにでも走って行きたくなってしまう。掲載されている電話は有料番号。まだ閉店までに二時間もある。とにかく行ってしまおう。

小雨が大降りになっていた。メトロを使って、地図を見て、雨のパリを走り出す。その間にも、色々なことが頭を過ぎる。どう考えても、明日しか予定が明けられなかった。それなら、どうしても、この夜に髪を切らねば。

ものすごい使命に駆られた殉教者のように、思いは大きく、そして確固たるものになる。ところが、携帯で書かれていた住所に辿り着くと、何かの間違いのような小さな入口。ネーミングもロゴも格好良く、サロンの説明も気が利いていたし、21時まで開店していることからも、ちょっとした大き目のサロンを想像していただけに、日焼けした古い昔のポスターがドアに貼られている様子を見て、これは何かの間違いだろうと思ってしまう。一度は通り過ぎる。それでも、殉教者の思いは強い。もう一度引き返して、思い切ってドアを開ける。

お客さんは一人。忙しそうに鼻に幾つもピアスを施した女性がドライヤーを使っている。奥から暇を持て余していた様子の若い女性がやってくる。予約なしだが、今夜お願いできないか。そう言うと、大儀そうに台帳を見て、来週の木曜の朝なら予約を入れられるが、と返事。そこのソファーに座ることさえ想像できなかったこともあり、残念な思いと、ほっとする思いとを抱え、雨の降る外に出る。

それから一軒だけ開店中のヘアサロンを覗くが、断られる。そう、もう遅い時間。さあ、帰ろうか。気が付くと白亜のサクレクールが近い。どこまで歩ってきたのだろう。いや、正確には走ったのか。メトロがありそうな場所を探して、歩くが、一向に黄色い大きなMのサインは見えてこない。標識で北駅が近いことが分かる。そうか。あの素晴らしく立派な建物は北駅の正面玄関か。

以前ロンドンに行くために北駅に随分来たことが懐かしく思われる。ロンドン。一時間の時差。あそこなら、サロンは開いているに違いない。一瞬だけでもそう思った自分に苦笑。どうもがいても、ユーロスターでロンドンに行く間に、お店は閉まってしまうだろう。こんなバカなお客向けに、夜遅くまで開店しているヘアサロンを駅のステーションビルに構えれば、結構当たるのではあるまいか。労働者を優遇するフランスでは無理な話だろうか。

RERに乗りながら、返事を書く。先ずは素晴らしいニュースを祝福し、招待を謹んで受ける旨を述べ、明日が一番都合が良いと伝える。すぐに返事が返ってくる。「良かった!実は昨夜帰って来たばかりなので、未だ買い物にも行っていないんだ。明日のお昼にまた連絡する。レストランに行ってもいいしね。」

明日の昼に連絡をもらうということは、ランチの誘いになるのだろうか。そして、招待とは、彼の自宅だったのか。家族がバカンスで出払っていると書いてあったけど。

いやいや。ここはもう勝手な思い込みは止めよう。そう思う理性的な自分と、相変わらず想像力逞しく、我田引水型の自分とが拮抗。

雨は小降りとなり、リラの甘い香が立ち上っている。








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