2011年9月30日金曜日

夏の終わり



「ママ、これなあに?」

長女の素っ頓狂な声。日曜の夕方のこと。外から帰ってきた彼女は、片手に小さなビニール袋を持っている。正確には、指で摘まんでいる。

「郵便受けに入っていたの。」
。。。
「ねえ、まさか、犬の糞じゃないよね。」

そのまさかのまさか。仰天。
ビニール袋は通りでどこにでも手に入る犬の糞の始末用。散歩をする犬が用を足しても飼い主がちっとも責任を持たないことから、通りは大変なことになっていた。そこで、数年前から自治体が対策として通りの各所に犬のトイレを設けることにしている。トイレといっても小さなスペースを丈の低い柵で囲ったもの。さながら公園のお砂場。そして、そこには通常、我が家の郵便受けに入っていた、小さなビニール袋が備え付けられている。

常識のある飼い主であれば、飼い犬に備え付けのトイレで用をさせ、ブツをビニール袋に入れ、自分の家に持って帰って処理する。人によっては、通りのゴミ箱に入れてしまう場合もあろうか。しかし、他人の家の、しかも、郵便受けに入れることはあるまい。

最初は信じられないとの思いで呆然とするが、この異様な状態でバッタ達を怖がらせたりしてはなるまい、と、恰も何でもないことの様に、あら変ね、といって娘から取り上げ、さっさとゴミ袋に密封し、廃棄処分とする。

その間も、頭の中は目まぐるしく動き、一体誰が、何故この様な、と怒りよりも、見えない相手に恐怖を感じる。

情けないことに、まったく完璧で潔白な人間ではない。
ひょっとしたら、と思われる人々の顔が次々に浮かぶ。我が家の庭の木が茂り過ぎており、至急何とかして欲しいと煩く言ってくる隣人か。或いは、先日引越ししたばかりの別の隣人が、バッタ達の練習するバイオリンの音がうるさいと言ってきているのか。はたまた、毎朝車で見かける犬を散歩している男性か。

と、隣では娘が犬を飼っている友人達を一人一人思い浮かべているらしい。あの子かな、いや、あの子かな、と言っては、違うよなぁ、と呟いている。

まさかお友達であるわけがないわよ、と伝えながらも、何か怨まれることをしたのかしら、と思ってしまう。いや、まさか。

あれから二週間。一時のことであるように願いつつ、臭いものには蓋よろしく、忘れようとしていた。

ところが、である。今度は、ご丁寧に我が家の玄関前に、両手に抱えんばかりの量が落ちているではないか。

あまり思わしくない方向に進んでいる。誰であれ、敵意を感ぜずにはいられない。何らかのメッセージ、しかも悪意ある無言のメッセージを体中に感じながら、重い足取りで家に帰る。

「きっと、頭のおかしい人がいるのよ。」

そんな風に切り出してみた。と、一番打撃を受けていると心配していた長女が、

「そんなんじゃなくって、きっと親から犬の散歩を言いつけられて子供が、めんどーくさいって思って、イタズラ心もあって、家の郵便受けに入れたんだよ。」

と、ちっとも動揺していない様子で自論をこともなげに告げる。

「え?ああ、そっか。でも、じゃあ、今日、玄関前にあった、あれは何?」

今度はバッタ達が揃って、あれは別物、だけど、よくある無責任な飼い主の仕業、という。

そんなものか。
色々と考え、悩んでいたことが嘘のように、心が晴れ渡る。しっかし、我が子ながら、なんと強く、そして何と楽観的なのか!打たれ強いというべきか、単純というべきか。大いに救われる。いや、本当に、実際そんな単純なことなのかもしれない。背後にある敵意や悪意など考え始め、怯え、怒りに震えていたが、実はそれは妄想であって、自分で自分の首を絞めていたのか。

まったく何もなかったかのように、いつもの様にふざけ合いながら、最近我が家で大流行の生春巻きを自分達で作っては頬張っているバッタ達の様子を見て、鼻の奥がツンとする。外では夏の終わりを謳歌すべく鳥達がしきりに囀っている。。。




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2011年9月28日水曜日

真夏日のような昼下がりに


カンファレンスを抜け出し外に出ると、余りの眩しさに目がくらむ。このところ、パリは真夏日。通りのカフェでは遅いランチをゆっくりと楽しむ人々で賑わっている。と、向こうからやってくる男性に気がつく。カンファレンスにいらっしゃるはずのお客様。カナダ人の彼は、トトロの様にポンと跳ね上がり、つぶらな瞳を一層きょろきょろさせ、まるでイタズラを見つけられた男の子の様にバツの悪そうな笑顔を向けた。左手には葉巻。

ふふ~ん。ライバル社とランチ?或いは、一人ゆっくりとビストロでワインを楽しんでいたのかしら?

先週のロンドンでのミーティングのお礼と、その時のフィードバックコメントの催促をする。

そうだった、そうだった、申し訳ない、と大きな体躯を小さくして謝る彼は愛嬌たっぷり。それより、と、彼が続ける。なんだってカンファレンスがフランス語なんだい?メインスピーカーは皆英語が話せるじゃないか。

上場企業のトップマネジメントを迎えてのカンファレンス。場所柄、フランス語にてお願いし、英語での同時通訳がつくことになっている。

フランス人のお客様が多いこと、そして、何よりもマネジメントが母国語でスピーチをすることの大切さを伝える。

「私だって、もしも日本語の会話となれば、全く違ったアピールができると思うのよ。」 とウインクして付け加えると、彼はちょっと不満気ながらも、そうかもしれない、と頷く。

勿論スピーカーにもよるが、時に、フランス人のマネジメントによる英語のスピーチを聞きながら、余りに酷いアクセントに、まるで話の内容までもが幼稚な感じとなり、その会社のイメージが大きく下がることがある。教育され、洗練された人材であるにも関わらず、本人のマネジメントとしての資質までもが問われんばかりになってしまう。更に、母国語ならではのニュアンスもあろう。日本人同士で、如何に英語やフランス語に慣れていても、日本語での会話の方がしっくりくるのと同じではないか。

あれは日本で仕事をしていた20代の前半だったか。いや、フランスに来て、もう一度学生をしていた頃か。英文で、異国の地で仕事をするということは、自国で仕事をすることに比べ、一年目は60%の能力しか発揮できず、二年目、三年目と数値は上がるが、決して100%にはならない、といった内容の論文を読んだことがある。これが、日本語で書いたものであったら、そんなものか、と忘れていただであろう。書き手がアングロサクソン系であったことで、非常に印象深く心のどこかにひっかかり、特に異国の地で働くようになってから、最初の頃は時々思い出しては自分を鼓舞していた。いや、慰めていた。

今になって思うが、もしもあの文章を読んでいなかったのであれば、異国の地での仕事場で、もっと奮闘していたのではないか。現状満足の境地なぞに到らずに、常に自己研鑽に励んでいたのではあるまいか。

いや、そうではなく、あの文章に出会っていたお陰で、ひどく空回りすることなく、潰れずに何とか生き延びてきたのであろうか。

今、こうして、ブログを始め、とにかく書きたいことが溢れんばかりで、それを全て書いている時間の余裕がないことに、苛立つ程である。日本語で自己表現したいとの欲求が、こんなにもあったとは、自分でも呆れ返ってしまう。いや、実は、いつかは英語やフランス語での訳をつけてみたい、と密かに思ってもいる。出来栄えは、それこそ100%でなくとも、それがたとえ自己満足の世界でも悪くはあるまい。所詮、ブログでの自己表現とは、自己満足の域をでないのかもしれない。

それにお付き合いくださっている皆様に、感謝の念を一層深くする次第である。




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後戻りはできない



「後戻りはできないのです。ユーロの崩壊はない。」

ギリシャのデフォルト危機が騒がれ、ユーロ圏からの脱退が噂され、ユーロの崩壊は秒読みなどと、まことしやかに世界のメディアで取り上げられている。

欧州、特にユーロ圏に実際に住んでみないと分からない感覚なのかもしれず、アジアやアメリカから見れば、欧州連合など夢物語に過ぎないのであろう。しかし、ノアの箱舟と一緒で、一旦乗り込んだのであれば、途中下船は叶わない。

東西ドイツが再統一することで、90年代ドイツは大いなる産みの苦しみを味わう。欧州も今、統一通貨ユーロの恩恵によるユーフォリアの時期を経て、新たなパラダイムのシフトが迫られている。

今ここでギリシャをユーロ圏から離脱させることは、欧州連合、統一通貨構想の破綻を意味する。


翻って、人生も同じではないか。

やり直しはできない。

人生は選択の連続であり、一度選んだのであれば、後戻りはできない。前に進むしかないのである。

勿論、以前選ばなかった選択肢を、今、新たに選ぶことはできるであろう。しかし、それは後戻りではなく、新たな選択なのである。

そして、その選択肢にしろ、以前と全く同じ条件ではないのである。



世界経済を個人レベルの人生観で斬るには、やや無理があろう。

しかし、世界経済から人生の真理を見出そうとすることは無駄ではないかもしれない。

エコノミストのプレゼンテーションに耳を傾けながら、そんなことを思ってみる。




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2011年9月27日火曜日

オーストラリアの父、ジョン


東の空に引っかき傷のような月を見つめながら、週末にもらったメールを考えていた。送り主はジョン。他でもない、私の16歳から17歳にかけてお世話になったホストファミリーであり、オーストラリアのお父さんである。

16歳になった12月の誕生日に留学機関から合格通知をもらい、行き先がオーストラリアであること、出発予定が翌年の1月であることを知り、アメリカ留学とばかり思っていただけに、一瞬落胆を覚えた。が、それは急速に興奮に変わり、ホストファミリーの写真を見て、素敵な中睦まじいご夫婦だけの写真に、これも一瞬落胆を覚えるが、それも急速に興奮となって体中を駆け巡ったことを今でも覚えている。

オーストラリアについての知識などちっともなかったので、一つ上の兄が、我が家にある大百科事典でオーストラリアを調べ、もともと英国にとっての流刑植民地であったこと、ゴールドラッシュや白豪主義、主食はじゃがいも、そして、現地人のアボリジニの存在などを簡単に説明してくれ、かなり面食らい恐ろしくさえなったことも、今では笑い話である。

ホームステイ先はサンシャイン州とも言われるクイーンズランドの州都ブリスベンから1時間の田舎町イプスウィッチ。とにかく未だ高校一年の16歳。ホストファミリーに同じような年頃の子供達がいればきょうだいのように仲良くして色々教えてもらおう、などとあわよくば考えていた。それが、ご夫婦だけの家庭に、それこそ年子の兄と双子の妹と、まるで団子3きょうだいのように育った私が一人放りこまれたことになる。

英語環境以上に、カルチャーショックであった。そして、その当時はそこまで考えが到らなかったが、受け入れ家庭の彼らにしても、子供のいない生活から、急に16歳の子供を家族の一員として一年間も迎え入れることは、相当な覚悟であり、大いなるショックであったに違いない。

ジョンの吸い込まれるような、キャンディの様なブルーの瞳に初めて正面から見据えられ、話を聞いたのは別送品受け取り所で。1月の暑い太陽の陽射しを受けながら、ゆっくりと、しかしきっちりと、ストレートに話をしてくれた。

つまり、オーストラリアには食品などを送っては駄目であると。私は泣きそうになっていた。母が一年間の滞在で困らないようにと、救急セットから衣類、ノート、梅干、海苔も含め、あらゆるものをダンボールにきっちりと美的に積めてガムテープでしっかりと止め、紐までかけてくれたのに、そのダンボールが駄目だと、入国審査で撥ねられていた。

一体、何がいけないのか。母の気持ちが否定されたようで、滞在初日から悲しかった。それでも、あの日のジョンの青く澄んで、キラキラとしたキャンディの瞳は良く覚えている。どんなに見つめても、その瞳の奥までは覗けない気がしたように思う。いや、純粋に見とれてしまっていたのかもしれない。

そうして、泣きそうな私の顔を哀れんでか、審査の役人がどこからか箱を見つけてきて、そこに入れ換えるなら中味を持っていっても良いと譲歩してくれた。どうやら、使用したダンボールが気に入らないらしい。

母が特別にしっかりとしたダンボールが良いだろうと、選別してくれた林檎の箱であった。日本語しか記載されていないのに、何が問題なのか。と、やおら役人が林檎の絵を指してウインクをした。確かに、真っ赤な林檎の絵が描いてあれば、それが林檎に使用されたダンボールであることは簡単に推測できる。使用済みであれ、果物の箱を持ち込むことは禁止されているのであった。

初日からこんな具合であった。真剣に真正面からストレートに話をするジョン。その前の一週間、留学仲間と大勢での留学準備キャンプを過ごしていただけに、その期間が夢のような楽しさであっただけに、一人で大海原に放たれた小さな金魚のように、心もとなく、家族を思って、辛かった。

コアラを抱っこしに連れて行ってもらったり、カンガルーやワラビーを見たり、レインフォレストで森林浴をしたりと、学校が始まる前の期間、今思うと、多くのイベントで私を歓迎してくれていた。

と、ある晩、ジョンがやはりキラキラのブルーの瞳で私を見据えながら話し始める。

「これは、君にとっての貴重な一年間なんだよ。Happyに過ごさなきゃ意味がないよ。合わないのであれば、ホストファミリーを交換することだって、出来るんだよ。」

その一言で、それまで抑えていた何かが爆発し、私は大声で泣き始め、自分の部屋に走り込んでしまった。ああ、ジョンは、私がHappyではないと思っている。私にここにいて欲しくないんだ、と。

今度は困ったのはジョン。そこで、オーストラリアのお母さん、グローリアの登場。何も言わずに抱いて、泣きじゃくる私の背中をさすってくれた。そう、このスキンシップに飢えていた。留学仲間を思って、家族を思って、寂しいんだと、ジョンとグローリアの家庭に迎えてもらって、私は本当にハッピーなんだと、何度も何度も泣きながら繰り返した。

そんなスタートだった私たち3人の生活は、正に家族の生活として、それから一年続くことになる。

一年後に、旅立つ私にグローリアは、いつか黒髪の赤ちゃんが欲しいと思っていたけど、こうして黒髪の貴女を子供として迎えられてこんなに幸せなことはないわ、とメッセージを書いてくれた。

ジョンは、何も言わずに、しっかりと抱きしめてくれた。

生物の授業がちっとも分からずに、夜中の3時まで辞書と首っきりだった私に付き合ってくれたジョン。最初は、一人で何か夜中に悪さでもしているのかと心配になって、一度寝ていたのにもかかわらず、起き出して来たらしい。

学校の教師との面談で、オーストラリアで大学進学をしない私の教師に会う必要はない、と言ったジョン。悲しそうな顔に気がついたグローリアがとりなし、夜遅く、学校に二人で行ってくれた。そうして、帰宅するや、こんなに誇らしく思ったことはない、とご機嫌だったジョン。

日本の父のお通夜の日、何故か胸騒ぎがすると国際電話をしてくれたジョン。

娘の子供なら孫だ、と言って、私の3匹のバッタ達を孫のように可愛がってくれ、2年前には11歳になった娘を、今年はやはり11歳の息子を、夏休みの二ヶ月、現地の学校に通わせ受け入れてくれたジョンとグローリア。

今ではイプスウィッチは都会になったと、もっと田舎に引っ込んで、ブリスベンからは半日もかかり、ニューサウスウェールズ州とのボーダーの村に100年前の田舎屋を自分達で改築して住んでいる。娘がお世話になったときにはキッチンがなく、キャンプの様な生活だったと後で聞いてびっくりしたものだ。

子供達は、みな、ジョンが言うことによれば、ジョンの話では、とジョン教になって帰ってくる。正に我々のグル的存在。

そんなジョンが、大腸癌だという。

この夏、息子の滞在中、体調が不良なるも息子の帰国まで検査をせず、帰国後すぐの検査で黒と出た。

待って。

19歳の時、父を癌で亡くしている。今、ここで、まだ60代半ばのオーストラリアの父を亡くすわけにはいかない。すぐにも駆けつけようか。グローリアは?

先ずは食生活の抜本的改革と健康回復の為の適度なスポーツが必要とばかりに、アマゾンで英文のその手の書物を買い込み、即、オーストラリアに送る。そうして、メールで、食事の大切さを書き、今にも駆けつけたい旨告げる。

と、すぐに返事。

「いつでも食事を作りに来てくれよ。こんな時こその娘じゃないか。」

化学放射線治療を施されに、一番近くにある200kmの町に5週間は滞在するという。週末だけは帰ってくると。そうして、腫瘍がある程度小さくなれば、摘出手術になると。

「気にしてくれる家族がいるって、悪いことじゃないね。ありがとう。また報告するよ。」

今度の週末、彼の帰宅を待って、電話を入れようか。栗のことでも話をしてみよう。きっとオーストラリアの栗について、一くさり薀蓄を傾けてくれるに違いない。


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2011年9月26日月曜日

バッタ達が寝静まって




けたたましく賑やかであったバッタ達がそれぞれのベッドに入り込み、一瞬にしてそれぞれの夢の中を彷徨い始めると、静けさが家中に戻り、私の時間となる。

庭の明かりがうっすらと入り、ほの暗いサロンでは、寝る前にバッタ達が喧嘩しながら練習していたヴィヴァルディの四季の「春」が余韻を残している。正確に言えば、フルサイズ、4分の3、そしてハーフサイズの3つのバイオリンが、勝手気ままにケースに入れられずに、あるものはソファーの上に、あるものはテーブルの上、あるものは床の上に置きっぱなしになっている。楽譜立てには楽譜が残っているし、ピアノの上にも楽譜が散在している。3人仲良く練習する時は極稀で、何故か誰かがバイオリンの音を出そうものなら、我も我もと、自分達のバイオリンを手にして練習を同時に開始したがる。あれは何なのだろう。それでも、今日は最後は一緒に「春」を弾き始めた。上と下が第2バイオリン、真ん中が第1バイオリン。それなりに楽しそうだと思ったのも束の間、「秋」を弾き始めて喧嘩をし、一人抜け、また一人抜けて、最後に残ったものが、自分の練習曲を乱雑に弾きあげ、終えてしまっていた。末娘は、それでも上の二人に従う気構えはあるらしい。が、上の二人は常に覇権争いとまではいかずも、テンポの速度からニュアンスに到るまで、自分の解釈通りに進まないことには癪らしく、喧嘩が絶えなかった。

片付かないサロンに溜息をつきながらも、一切手を出さない。親が手を貸してしまうと、いつまでたっても自分で片付けることを知らない子供になってしまうのではあるまいか。が、実のところ、本音はそこまでやっていられないのである。無理なことは無理、としないことにしている。手抜きママで結構。ちょっとぐらい片付いていない家でも、皆が楽しく過ごせたら、それ以上を誰が望もうか。なんて、調子良く思っている。

そうして、早々にバッタ達を退散させるべく上手くことを運び(無論、彼らは自主的にベッドに入ると思い込ませることが肝要)、漸く、自分の時間を手にする。子供は早寝早起きに限る。

さて、今回は私も「四季」の第3バイオリンのパートを仰せつかっている。アルト(ヴィオラ)を手にしながら音の粒を撒き散らす。アルトを弾き始めてもう4年になるだろうか。子供達のバイオリンの先生が、ある日、今日はプレゼントがあるのよ、と私にバイオリンを手渡してくれた。それは先生のバイオリンにアルトの弦を張ったもので、アルトを弾いてみないか、とのお誘いであった。実は、その時は、自分自身でもピアノを弾く妹の影響でヨーヨーマのチェロに酔いしれており、彼のCDは幾つも持っていて、車の中、お風呂の中、食事の時、寝室で、と、常にヨーヨーマの音を楽しんでいた。それでも、チェロは私の背丈ほどの大きさ。だが、アルトはバイオリンをちょっと大きくした手頃サイズ。しかも、今回バイオリンの先生が貸して下さったアルトは、バイオリンのサイズ。いや、それよりも何よりも、絶対自分のバイオリンを生徒に触れさせもしない先生が、特に私がお願いしたわけでもないのに、さあ、と手渡してくれたことに驚き、彼女の気持ちと心遣いに、えも言われんほどに感激していた。私の心に欠けているもの、飢えた精神、悲哀を感じ取ったのであろうか。その心があまりに嬉しくて、その気持ちに応えたくて、一週間お借りして、その後すぐにアトリエに行き、私のアルトを探すことになる。

アルトの練習は、バッタ達が寝静まった夜中。

それ以降、バッタ達と一緒に生徒の一人としてコンサートにも出ることになる。学生の頃、弁論大会に出たこともあるし、人前での発表には慣れていると思ってはいたが、初のコンサートで、弓が弦にガチガチあたり、震えてしまい、音にならなかった。左指はいつもの動きをしてくれない。あれほど緊張したことはなかっのではあるまいか。いや、それが少なくとも3回は続いた。それまでバッタ達には、弓が曲がっている、姿勢が悪い、力が入っていない、弓の持ち方がなっていない、と一度に幾つもの注文を出していたが、それが余りに無茶な要求であることを、身をもって知ることになる。

先日も、遊びに来た友人の前で、ちょいとバイオリンを弾いてみてとバッタ達にリクエストしたところ、反応は悪かった。そうして、ママがアルトを弾けば良いじゃないの、ときた。なんたること。

それでも気がつくと、バッタ達の練習で何度も聴いているために、すっかり耳が覚えているお蔭でか、色々な曲を弾けるようにはなってきている。

いつかバッハのシャコンヌをイタリアの教会で、ステンドグラスからの光を受けながら弾いてみたいと願っている。願望に貪欲であっていい。志は高くありたい。その時には勿論バッタ達と一緒に。それぞれが、それぞれの思いを音にできたら、これ程幸せなことはなかろう。

La musique double la vie. / 音楽は人生を二倍にする』。フランスの詩人、Sully Prudhommeの言葉。


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2011年9月25日日曜日

天からの恵み


バサリッ、バサリッ。

すざまじい音とともに、何かが天空から降りてくる。いや、落下する。足元には踏み場もない程にイガが転がり、その中からつやつやの栗がはじけのぞいている。仰ぎ見れば、遥か頭上でせわしなく動く茶色の物体を発見。リスに違いない。枝と枝を飛び渡り、別の木に乗り移り、幹を駆け上がる。顔こそ見えないが、お茶目でぐりぐりの円らな瞳がすばしっこく動く様子が感じとられる。彼の動きが手伝ってか、或いは栗の重みか、時々忘れた頃に、バサリッ、バサリッと、イガが落ちてくる。栗がこれ程の存在感を持って落ちてくるとは今まで気づきもしなかった。誰もが無口となり、時々イガにチクリとされて思わず上げた声のみが、青い空に高く吸い込まれていく。後は静寂と、そして、時々の、バサリッ、バサリッ。

持ちきれない程重くなった袋を引きずるように森を後にする。

早速我が家に戻り、待ち切れんばかりの勢いで、大鍋にたっぷりの湯でぐらぐら煮始めると、キッチンから甘やかな香りが漂う。その匂いに連れられて、バッタ達が集い始める。そうして、皮むきが大勢の手でなされていく。一番大きい栗は自分のお手柄だと言い張り譲らなかったり、こっそり味見をして、そのとろけんばかりの美味さに驚嘆の声を上げたり、栗ご飯が食べたいとか、モンブランを食べてみたいとか、マロンケーキを作ってとか、リクエストの声も出る。そうして、瞬く間に剥いた皮の山ができ、後にはほっくりとした栗がまだ湯気を上げつつ残る。

皮の剥き過ぎで、親指の爪に痛さを感じつつも、これだけの猛スピードで仕上がった年は初めてだと感慨に浸る。

今年はバッタ達が一緒に手伝ってくれたのか。。。口に入れた今年お初の栗の優しい甘みに、思わず笑みがもれる。秋は来ぬ。



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2011年9月24日土曜日

早朝の北駅


そこだけが別世界の様に明るいタクシーの光に吸い込まれ、夜の女王が支配する街並みを移動する。運転席でも助手席でもない、後部座席からの景色は、いつもの道の筈なのに、知らない場所に入り込んだ錯覚に陥る。

眠りの足りない、うまく回転しない頭の中で、北駅までの道のりを辿り、これまで何度も向かった北駅への記憶が、丁度オレンジ色の街路灯が車のスピードで流れていくように、幾つも、幾つも脳裏を掠める。

そのどれ一つ地雷の要素が最早なく、心の奥底の湖も波立つことなくひっそりとしている。

そうして、夜の喧騒を引き摺る空間と、新たに旅立つ高揚感に満ち溢れた空間が入り混じる早朝の北駅に足を踏み入れる。。。


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2011年9月22日木曜日

コウノトリの国


「フランス語、ドイツ語、英語。あんたは何語をしゃべる?」癖のあるフランス語でいかめしい顔に睨まれる。ここはアルザスの農協スーパーのレジ。ブドウ畑の丘の上にある小さな村にパンパンの足でたどり着き、喉は干上がっている。フレームに取り付けてあるボトルはかなり前から空。せめて水で潤そうと、目に入ったスーパーに崩れんばかりに入り込み、レジでお金を払うところ。眼鏡の奥の瞳に睨まれ、海外生活が10年以上を過ぎた今でも、外国人として冷やりとする。一体何事か。「フランス語を話します。」眼鏡のおじさんは俄かに活気付き「こいつは、冷たくても美味いんだ。スケソウダラを一旦油で揚げて、それをビネガーで漬けてある。」こちらは水だけが欲しいのに、なんと相棒はちゃっかりと魚の缶詰を選んで、レジで私の水の脇に置いていた。その魚の缶詰に対して親父さんは一くさり薀蓄をたれたがっており、話は続く。「このソースがまた美味い。パンを浸して食べるのさ。」最初は検問かと疑うほどの居丈高であったが、骨太の指をしゃぶる真似さえしての熱弁に圧倒され、よかったら、ご一緒にどうですか、と喉まで出かかる。お礼を言って、一体何ヶ国語を操るのか聞いてみる。「フランス語、ドイツ語、アルザス語。そして英語をちょっと。あんたの国の言葉は知らないよ。」日本語であることを伝えると、「あんたの国は立派な国だってことは知っているよ。なんだって、洋服も、靴も、みんな、あんたの国製だもんな。」と宣う。日本製の品質の良さが国際的に認識された時期は60年代ではないのか。車やゲームソフトなら納得もするが、アパレル関係は今や東南アジア諸国製に席巻されているのではないか。アルザスの田舎では、昔の日本製のシャツなんか、重宝されているのか。訝しげな私の表情に、せっかく国を持ち上げてやったのに、気に入らないのか、と不満気。眼鏡の奥が光る。「ああ、そうそう。オリンピックだ。もうすぐ、あんたの国で始まるよな。」やっぱりそうか。親父さんは日本と中国をすっかり混同している。オリンピックは中国の北京で開催される予定で、日本ではないと伝えると、「お!そうか!いやあ参った!」すっかり狼狽し、おもむろに相棒に話を振る。「ま、どんな国の、どんな言葉だって、理解できりゃあいいのさね。」私が「私たち、サイクリストなので、ペダルを踏むだけですから。」と返すと、「いいねぇ。ペダルを漕いでのコミュニケーションってか。そうして、時々、お互いライトをチカチカさせて、刺戟し合うってか。そうさ。なんだってコミュニケーションし合えるものを持っているってことが大切なのさ。じゃ、気をつけてな!」

アルザスと言えば、普仏戦争時を綴った『最後の授業』。フランス語が話せなくなることを嘆く先生と生徒達に感銘を受けた筈。が、実際は地元ではアルザス語(実はドイツ語の方言)が使われ、第二次大戦後仏語中心教育が推し進められ、方言、地方語の使用は厳禁される。仏政府で見直しが計られ、数年前から漸く学校でもアルザス語を習得できる環境になるも、メディアの力か今では子供たちは仏語が母国語となっている現状を嘆く地元の人々の話を目の当たりにするに到る。20代の娘たちはアルザス語をスペイン語の様に(つまり外国語として)理解すると言っていた、ドイツ人と結婚したアルザス出身の女性。フランスとの国境に接せるドイツの観光都市バーデンバーデンに在住。何故か、当地では国境間際であるも、仏語を解する人が少なかったことと、アルザスでは皆、ドイツ語を話していたことが印象的。件の彼女が、アルザスはフランスとドイツの二つの文化を共有しえる特異な環境にある素晴らしいところよ、と前向きな姿勢が嬉しかった。

ペダルを踏みながら、相棒の後姿を見つつ、コウノトリの飛ぶアルザスで心は豊かに満ちてくる。












 2008年夏の思い出




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朝の香り


夢の世界を彷徨うバッタ達がいるからか、寝起きで身体が未だ軟らかで温かな布団のぬくもりを纏っているからか、或いは、何も考えずにひたすら猛スピードで朝の準備をするからか、玄関のチョコレート色をした扉を開けて外に出ると、余りの別世界に息を呑む。

暗がりの中で歩を進める度に、ひっそりと薔薇の香りと、かすかなラベンダーの香りが、しっとりとした夜の香りに混じり感じられる。見上げると、突き刺さる程の白さで笑いかけてくる月と目が合う。ここでは、月は白。もう何年も見慣れた筈なのに、初めてのことの様に驚く。

オレンジの街灯の下でぽっかりと浮かんでいるペンギンシルバーに身を滑り込ませる。4本あるうちの1本のインジェクタを新品にしたからか、エンジンの掛かりは最高で、軽やかに歌っている様にさえ思われる。車に載せているスパイシーオレンジの香りが心地よい。

未踏の地を進む冒険者の様なちょっとした興奮を感じながら、夜の帳が開け切っていない通りを走り出す。。。

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2011年9月21日水曜日

君色のキャンバス



 ガレージに修理を頼んでおいたクリオを取りに行ったので、いつもよりも早い退社となり、7時には我が家の前に着いてた。9月から始まった学校で恐らく各学年別の保護者向け説明会があるのだろうか。玄関から学校が見えることで、子供達の通学には最高の環境だったが、我が家の前の道路は、時に子供を送迎する保護者の車で埋まることが多かった。そして、その日も例外ではなく、いつもは路上駐車をするところ、門を開け、庭に車を入れることになった。いつかは電動式にしたいと思いつつ今になっていた。その間、子供達のベビーシッターが一度、バックで門に当たり、門は微妙に段違いとなり、鍵こそ掛かるが、パーフェクトな状態とは程遠かった。それでも、昨年は家の門だからと、新たにペンキ塗りをしたものだった。いや、バッタ達が父親のもとで連休を過ごしている間、建設的にならねばと、近所の日曜大工の店に行って、手っ取り早くペンキを購入したのだった。その延長とも言えようか。我が家の物置には何台もの芝刈り機、チェーンソーまでもが揃っている。
 
 さて、つい話がそれてしまう。その日は末娘が今年初めてのダンスの日。これからは帰りに一人でバスに乗ることになるが、その日だけは長女が迎えに行ってくれていた。ダンス教室に二人を迎えに行こうか、との思いが夕方の道を車で走りながら、ほんの一瞬過ぎる。が、末娘には一人でこれからバスに乗って帰ってきてもらわねばならないことを思えば、二人に任せることが一番と、私にとっても気楽な方を選んだのであった。頭の片隅に、一人で残っているだろう息子のことがなかったとは言い切れない。11歳の息子は二ヶ月の夏休みを終えて帰ってくると、俄かにママ、ママとなってしまっていた。いや、それよりも、このところの父親との対立は目に余るものがある。頭ごなしに命令し、学校カバンも所有者の不在中に勝手に手にし、ノートに書かれた間違いを几帳面に書き取り、後で訂正させる、なんてことをする父親を煙たく思っているのは、彼だけではなかった。それでも、長女は、そんな父親の一時的ながらの熱心さに応えるだけの礼儀を知っていたし、末娘は、逆らうには幼過ぎた(それでも宿題をスキャンして父親のメールアドレスに送れと指示する父親が購入したマルチ印刷機は、いつの間にか埃が被っていたが)。息子は正面から対立した。物事には優先順位があるだろうと、父親の命令は今すべきことではない、と大声で言い放つ息子に、いつものママを慕う甘えたところはなかった。反抗期?そうなのであろうか。

 庭に車を乗り上げても、家からは音さえしなかった。訝しげに玄関に行くと扉には鍵が掛かっていた。寂しがり屋で、ちょっと怖がりの息子のこと。鍵を閉めて二階に上がって本でも読んでいるのだろう。そう思って鍵を開けて入った我が家はひんやりとしていた。「ただいま」の声に返事はなかった。玄関には散らばった靴。サロンにはバイオリンがケースに入れられずに絨毯に転がっていた。末娘が担当する雨戸は閉まったまま。ふと、息子も皆と一緒にダンス教室まで迎えに行ったのかとも思ってみた。それにしても、誰もいない家に帰る時は、こんな感じがするものだろうか、と久々に一人を味わっていた。朝の喧騒をまだ引き摺っているかの様な、それでいて、ひっそりとした空間。末娘は、毎日この孤独を味わっているのかと、胸がつんざける思いがする。

 そうだ、バドミントンの練習に違いない。前の晩の息子の言葉がよみがえる。息子は大のスポーツ好きであった。小学の頃は休み時間のサッカーが楽しみで学校に行っている節があった。それが卓球になったり、ハンドボールになったり。スーパーで床に転がるジャガイモでサッカーのドリブルをしている6歳の息子を見て、唖然としたものだった。同じ学校に行っている筈なのに、娘は普通校、息子はスポーツ専門の学校かと錯覚することさえある。存在さえも知らなかった学校の休みを利用した地元自治体主催のスポーツの研修、学校のクラブ活動、そんなものは、全て息子のお陰で発見するに到った。今年も放課後の活動として、バドミントンを希望していた。その練習開始日に違いなかった。

 一人納得し、このところ凝っている生春巻きを夕食にしようと、海老を剥き始めた。幾つも剥かないうちに、元気な声で娘達が帰って来た。それから、息子が風のように帰って来た。バドミントンの練習だったのね?と確認するが、それには答えずに、下を向きながらキッチンのドアに身体を預け、学生手帳に先生から記入されたと告げる。一体何のことだか、さっぱり分からないでいると、いきなり先生がいけなくて、悪いのはボクじゃない、と始まった。この年頃にありがちとは言え、話はまったく要領を得ない。漸く、落ち着かせ、ゆっくりと話を聞いてみたら、何のことはない、授業で使う指定本を持ってこなかったので、先生から教材不備のチェックを受けてしまったということ。本人に言わせると、前の時間に先生は確かに、次回は試験をするので、本は持ってこなくても良い、と指示したという。だから、クラスで9人もの生徒が本を持ってこなかったという。なら、何故、先生に、そのことを正さなかったの?と正論を長女が指摘。息子は、最初から先生の心証を悪くさせたくない、と。先生が白と言えば、白である。そんな考えが彼の中で育っていたことに驚く。それでも、学生手帳に記入されることは、生徒にとり精神的負担とはなる。期末の成績に響くことは間違いない。蒼白になりながらも、彼は付け加えることを忘れなかった。ボクが授業中に聞き間違ったのかもしれない、と。

 そんなことがあったからだろうか。夕食の時間には、小学の時からの仲間の一人が最近余り態度の良くない生徒達とつるんで、皆に意地悪をする、と訴える。しまいには、その彼が小学生の時はどんなに良いヤツだったか、と涙声。一体、どうしたんだろう。

 夕食後、お風呂に入ってさっぱりしたのか、バイオリンの音が聞こえてくる。

 もう分かっているだろうか。息子よ。誰もが自分というキャンバスを持っている。生まれたときは、それは真っ白。今、君のキャンバスは何色で染まっていると思う?他でもない自分色に染まっているんだよ。自信を持って、我が思う道を進んでくれ。ママは一緒には歩まない。元気良く突き進むだけのエネルギーを持って君は生まれたんだよ。そのエネルギーを上手く使う知恵もしっかりついてきた。体力も問題ない。応援はしっかりさせてもらうから。ウルサイなんぞとは言わせないよ。さあ、立ち向かえ!

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いやはや、人間とは!



フランス領ギアナのクールー宇宙船発射基地から、ロケット「アリアン 5」が2基の通信衛星を搭載させ打ち上げられる予定が昨夜延期となる。なんと宇宙船発射基地のレーダー管理会社の社員によるストが原因。本当にフランスという国には多くの意味で驚かされる。

と、今度はNASAからの発表。どうやら今週の木曜から土曜にかけて、ミッションを終え地球を周回していた6.5トンの人工衛星が、大気圏に突入し地上に落下するらしい。正確には、大部分は大気で燃焼。500キロ程度が地上に落下。直前に、750kmの直径範囲内での落下場所を特定できるとか。地球上の10%のみが人間が居住している空間であり、人への被害の可能性は薄いとはされているが。

万有引力の法則!当たり前とは言え、いやはや。人間とは!



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2011年9月20日火曜日

飛ばない鳥がいないように...


大海の中から一滴をすくいとってもらう、或いは、広大なる砂漠の中から一粒を選びとってもらう、
そんな千載一遇の貴重なことなんだと 改めて思っています。

そう、このブログを偶然見つけて、見てくださる皆様の行為のことです。

ああ、どうぞ、この弱気なクッカバラに、囀り続ける力をお与え下さい。

されど、
されど、です。

クッカバラが囀らなければ、クッカバラたりえない。
どんなに疲れていても、飛ばない鳥がいないように、
クッカバラは囀り続けます。。。

と、自戒と自嘲と自己への鼓舞の意を込めて。。。

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若さとは


 ミッドナイトブルーとでも言おうか、墨色に紺青を混ぜた濃厚ながらも暗黒ではない世界。それを恰もびりびりと破いたかの様に、太い一筋のターメリックが覗く。東に向いながら、そのうち満天の星空の下を通勤することになるのか、とつぶやく。

 それにしても若さとは何だろう。もうすぐ14歳になる長女の顔を思い浮かべる。

 4歳から始めたダンス。それこそ最初は兎のダンスさながらだったが、あれは彼女が8歳の時だったか。初めてのスペクタクル。時刻だけ告げられ、街の大きな劇場の観客席に座りながら、彼女が集団の中心になって、嬉々として明るく楽しく踊りあげている姿を見て、思わず涙してしまった。所謂エトワールの役を頂いていたことを、一言も母親に告げていなかったので、心の準備もカメラの準備もできていなかった。

 当時、週に2回のダンス教室通いは、近所に住む二人のお友達のお母様たちのご好意に甘え、送り迎え共にお願いをしていた。その頃、一緒に行ったスーパーで、娘がダンス用のオヤツを買って欲しいと言うので、幾つかビスケットを選びながら、彼女がお店で何かを買って欲しいとねだる事は、ひょっとしたら初めてかもしれないと思ったりもした。その後、お母様たちから、実はお友達二人が、娘をいじめていることを聞かされた。「あんたのお母さんはお金儲けばかりしか考えられないから仕事をしていて、あたし達のお母さんがあんたのことをダンスに連れて行ったりしているのよ。あんたのお母さん、お迎えに来もしないじゃない。せめてオヤツぐらいは持ってきなさいよ。」そんな風に言われていたらしい。娘の口からではなく、お友達のお母様から聞かされ、どんなに驚き、どんなに胸を痛めたか。今思えば、そればかりではあるまい。ダンスの世界は厳しい。子供の世界も厳しい。そんな中で、エトワールの役をもらってしまったら、他の友達から羨望と嫉みを一身に受けたのではあるまいか。

 次の年からは、一人でバスに乗って通わせた。ママは送っていってあげられない。だから、あなたが一人で通って頂戴。それができないのなら、ダンスは諦めましょう。そんなことを言ったと思う。上手い具合に、同じ時間帯にバスに乗るお友達がいて(その子もお母様が一緒だったが)、そのお友達と一緒に通うことができた。でも、翌年からは一人でバスに乗り、一人でシニヨンをし、通ったものだった。

 親としては毎年恒例のスペクタクルが楽しみであった。彼女が華麗に舞い踊る姿を見ることは、子供の成長を確認し楽しむことと、彼女の姿に誇らしげな気分も相まり、至高の時であった。

 バレリーナを夢見る少女として、トゥシューズを履くことは、一段とプロの世界に近づくことになり、この上なく気分が高まるらしい。一方で、それに従い、練習も週3回となり、時間帯も夜の8時、9時になる。勉強やテストとの兼ね合いも大変になる時期ではある。トゥシューズを履けた初めての年は、会場の問題でスペクタクルは中止となった。翌年は、練習場のコンディションの問題で、トゥシューズを履いての練習は稀になってしまった。そして、気がつくと、彼女の周りは普通校の生徒はいなくなり、皆、日中もダンス専門コースを選ぶ生徒達となってしまっていた。

 今年6月の待ちに待ったスペクタクル。前半、4つ下の妹が、それこそ、4年前の彼女を髣髴させるかの如く、嬉々として明るく楽しく、皆の中心でダンスを披露してくれた。後半の部で、黒い衣装に身を纏った彼女が出てきて、ドキリとした。相変わらずの指先まで表現している華麗さ、優美さ。ところが。彼女の顔は冴えない。何か人生の深淵でも覗いてしまったかの様。あの煌く自信に満ちた彼女はどこにいったの?ダンスをすることは、もう喜びではないの?妹の、幼いながらも、体中で喜びを表現するダンスを見たばかりなので、その対照的とも思われる彼女の姿に愕然としてしまった。

 親になって難しいといつも思うことは、子供への対応。子供が上手く何かをした場合は、手放しに喜び褒めちぎれば良い。でも、ちっとも評価できない内容であったら?余りに悲惨な算数のテスト。でたらめな漢字ばかりの作文。ちっとも埋まっていない白紙寸前の解答用紙。

 いや、そんなことより、ティーンエージャーとなった娘が、今、彼女らしさを見失って、精気さえもなくしてしまっていることを目の当たりにして、その事実の重さに当惑してしまっていた。勝手に出て行ってしまった父親のところに、親権があるからと2週に1回の割合で週末行くとき。以前は、嫌だと泣いて、私を泣かせた彼女。最近は、何も言わずに黙々と、当たり前の様に2歳下の弟と、4歳下の妹のパジャマの準備までし、それこそ以前は何も分からずにパパのところに行っていた弟や妹が、行きたがらずにぐずる姿を見守る役割をしている。仮面の様な、静かな笑みを湛えながら。そんな彼女に追い詰めてしまったのは、親の私ではあるまいか。そんな風に思ったりもした。

 8歳の時から始めたバイオリン。一年前に始めた弟にあっと言う間に追いつき、楽しく練習をしていたが、ダンスで冴えない顔を見せた頃、すっかり自信を失ったかの様に、人前で弾くことを嫌い始めた。音色にも力がなく、なんだかんだと言っても、才能というものがあって、我が子には、バイオリンの才能がなかったのだな、などど思ったりもしていた。そうして、勉強の時間がとれないのか、学業も低迷飛行に思われ、何れは勉強に専念するためにも、バイオリンも辞めることになるのかな、とぼんやり思ってもいた。

 ところが、だ。
 そんな彼女が変身した。

 彼女の中で何かが弾けたのであろうか。

 あれは、掛かり付けの医師に子供達の健康診断書を認めてもらっている時。今年は陸上をしない、との弟の声を聞き、彼女が呟いた。私がしようかな、と。へぇ、悪くないんじゃない。走るの速いものね、と私が応じると、ぱっと顔を明るくした。その後、既に今年度分のダンスの申し込みをした私に対して、遠慮がちに、ダンスも陸上も両方はできないから、陸上をしたら、ダンスを止めなきゃならないけど、と言う。まさかダンスは止めまい、と思うものだから、そりゃあそうよ。選ばないとね。と告げると、ダンスを止めて陸上を始めるとのたまう。陸上に仲良しの友達がいるわけでもない。それなのに、あれやこれやと、あっと言う間に、自分でダンスの先生に断りに行き(すごい覚悟!)、自分で陸上の申し込みに行ってしまった。

 4歳から続けていたものを、すぱっと諦め手放してしまえる強さ、それが若さではあるまいか。
継続することの尊さ、継続することで得られる力、それを簡単に放ってしまったかに思えたが、そうではあるまい。

 プロのバレリーナにはなることのない彼女は、これまで培った表現力と心の豊かさを、別のことに発揮してくれるに違いない。8年間のダンスの世界は、これから彼女の人生を豊かなものにしてくれるに違いない。そうして、明らかに自信に満ちて、輝かんばかりの健康体の彼女が奏でる音は、驚くほどに聴くものの心を打つようになった。バイオリンの練習量も明らかに違っている。

 この一年で、また大いに悩むであろう。いや、人生はこれから。
 
 とりあえず今は、好調なスタートを切った彼女に心から応援の拍手を送りたい。

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2011年9月19日月曜日

父の誕生日


 このところ雨が降るたびに気温が下がり、刻々と秋の訪れが感じられるが、今日は久々に青空が広がっている。運命とは不思議なもので、既に今日、このテーマを書くことが決まってしまっているかの状況に呆然。いつかは、と思ってはいたが、その日は思った以上に早く、そして今日のこの澄んだ青空を見上げれば、今日でなければ他の日はないような気分にもなってくるから、人間とはおかしなもの。

 9月19日。それはもう、随分前のこと。私が小学4年の秋に、我が家は通りを挟んだ真向かいの新築の新居に引っ越したので、いつも幼少時の思い出は引越し前と引越し後で区切りをつけている。そして、この思い出は、引越し前の古い家。きっと、小学3年生か4年生、そんな頃だったと思う。食卓の壁に掛かっているカレンダーを見て父が嬉しそうな声を出した。「誰だ?このシールを貼ったのは?」9月19日のところにピチッと貼られている「パパの誕生日」、と書かれたシールのことだ。私だよ、と言えばよかったのに、何故か、別なことをしていた私は咄嗟に反応ができなかった。もしかしたら、楽しい展開になりそうだと、ワクワクと期待していたのかもしれない。ところが父は、満面の笑みを浮かべ、妹の名前を呼んだ。妹といっても、一卵性双生児の私たち。生年月日も性別も、身長の高さまで一緒だった。私のほうが、ちょっと先にこの世の空気を肺に吸い込んだことから、長女となり、彼女が私の妹となった。彼女のことを話せば、話は尽きることがある筈もなく、取り敢えずは別の機会に譲らねばなるまい。ここでは、生まれた時から、姉妹兼親友が一緒であったと記すに留めよう。

 さて、父は、誕生日のシールを貼った犯人は妹であると言い放った。妹は頑なに違うと言った。それ以外に何が言えよう?確かに、あのシールは私が貼ったのだから。それでも、父は相好を崩し、妹に違いないと譲らない。今思えば、私は子供らしくない子供だったのだろうか。ただ、あの時、心に何か風が吹いた様には思う。それは紛れもない『遠慮』の風であった。そんな事件がなくとも、父が妹を可愛がっていることは肌で感じていた。妹のことは「○○子、○○子」と呼びかけ、私のことは「○○」と呼び捨て。妹の名も、私の名も構造上同じなので、語幹を崩して最後に「子」をつける呼び名は父が妹につけたものであった。ただ、言明できることは、その事実をもってしても、ちっとも私は不幸でも、悲しくもなかったということ。父は妹を最も可愛がっているとして、父の隣に行くことを遠慮するようになっただけのことである。

 高校に入ると弾けた豆の様にオーストラリアに1年留学して行った私。1年経て帰ってくると、父がすっかりと痩せてしまっていることに先ず驚いた。手紙で胃潰瘍で手術をするけれど、心配するな、と知らせてはあったが、これ程にも辛い病状であったのかと、正直、どう反応してよいのか分からなかった。帰国の時期が丁度兄の大学受験の時期と重なったのであろうか。うろ覚えではあるが、父が療養しているという東京の祖母のところで(母の実家)、オーストラリアから帰ってきたばかりの私と一緒に数日お世話になった。と、ある日、父が映画に行こうと誘ってくれた。生涯初めての父からの映画の誘いであり、それは生涯最後ともなってしまった。こともあろうに、私はその誘いを断ってしまった。その日は兄の共通一次試験の日。そんな大切な日に、まさか映画などに現をぬかしている場合ではないであろう、と。今、思えば、何様のつもりだったのだろうか。映画に行かずに、その代わり何をしたのか、今ではちっとも覚えていない。父は一体、どんな思いで私を誘い、どんな思いで私の断りの言葉を聞いたであろうか。子とは、時として親に対して酷い仕打ちをするものだ。これは、親になって始めて分かったことではあるが、今でも、あの時の誘いを喜んで受けていたら、と辛く思い出す。

 もう一つ。後悔していることがある。いや、懺悔、その言葉の方がぴったりとくる。そうして、何度懺悔しようにも、取り返しのつかない事実に、改めて打ちひしがれる。高校3年の、そう、丁度今日の様な秋のある日。既に兄も、妹も、東京の大学に行ってしまって、私だけが家から高校に通っていた。中学までは徒歩で通えたが、高校は一時間に1本あるかないかの在来線に乗って、それこそ小一時間かけて通っていた。あれはテスト期間であったのだろうか。早々に家に帰ってくると、リビングのロッキングチェアーに父が昼寝をしていた。いや、あれは昼寝ではない。物凄い形相で、胸を掻きむしり、その苦しんでいる格好でロッキングチェアーに身を委ねていた。死?恐ろしい文字が浮かんだ。声もかけられず、兎に角怖くなり、早々と二階の自分の部屋に入り、恐ろしさに震えていた。と、バタンとドアの音がして父が外に出ていったことが分かった。急いで窓に駆け寄り、父の姿を確認した。そうして、このことを怖いもののように、ぴったりと蓋を閉めて記憶の奥底に仕舞ってしまったのである。どうしてあの時、夜、仕事から帰ってきた母に、この話をしなかったのか。どうして、父に、そのことを話さなかったのか。今でも、本当に、どうして自分があの時、母にも話をしなかったことを不思議に思い、自責の念にかられる。あの時、既に病魔が父を襲い、父の身体を蝕んでいたのである。一体、何故、あの時、あの警告を、皆に告げなかったのか。どう考えても、誰にも信じてもらえないかもしれないが、記憶の奥底に隠してしまい、忘れてしまっていたのである。その後、あれほどの大事になるとは思いもせずに。

 私の大学入学とともに、父の病気は再発した。武道館での入学式への出席が、恐らく父が出た最後の公式の場となる。『再発』と聞いて妹は泣き崩れた。高校生であった私には隠していたが、実は父は癌で、胃を全部摘出していたことを、その時に知らされた。そして癌の『再発』は、死を意味すると。大学の夏休みは毎日、虎ノ門にある父の病室に通った。高校時代、何も知らずに看病も何もしなかったことを埋め合わせるかのように。父は最期まで自分の死を思っていなかった。それでも、ある日、父の足元がすうっと冷えだし、朝には、その階の看護婦さんが全員揃って父に挨拶に来た。医師も彼女達も知っていた父の最期。父だけが知らなかった最期。

 それから暫くは、母の前で父の話をすることはタブーであった。母が父のことを話題にすることは出来ても、我々が話をしてはいけない、そんな不文律が出来上がっていた。そうして、数年が過ぎ、母も父のことを心取り乱さずに話せるようになった頃、、母から父の手帳の存在を知らされる。母が言う。「最初は小さなミミズの這ったような字だから、何が書いてあるのか分からなかったのよ。でも、よくよく見たら、『○○ちゃん』って。あなたが病院に来てくれた日だと思うわ。」

 ○○ちゃんとは、私の名前の語幹の最後を崩して、それにチャンをつけた、幼い頃の私の呼び名。。。声をあげて泣いたことは言うまでもない。

 今日、9月19日は父の生まれた日。8月7日が祥月命日だが、9月19日は忘れられない父の誕生日。

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2011年9月18日日曜日

初恋の相手との再会



65歳には死ぬつもりだよ。それまで国に奉仕すれば十分だと思っている。そうして生まれ変わりたいんだ。」 

手も握ったこともない初恋の相手との再会はフェースブックで。侮るなかれ、ソーシャルネットワーク。今夏、日本の友人がソマリを飼ったので、写真を定期的にアップするからフェースブックに入れと誘う。ああいったものは、卒業したと高を括っていたが、ソマリの写真見たさにメンバーに。すると、仲間捜しコーナーが。ひょっとしたら、と、学生時代の友人、知人の名前を片っ端から入れてみる。日本人は同姓同名が多く、一人見つかったのみ。そして、ゲイと思しきオーストラリアの友人にハローのメッセージ。ふと、あの彼の名前を入れてみる。これまでも何度グーグッたことだろう。ヒットしたことはない。と、似たような名前を聞いてくる。この方ならいらっしゃいます、と。ひょっとしたら、20年近くもたっているし、忘れるはずがない名前なのに、いつの間にか記憶違いなんてあるかもしれない、と、その相手にメッセージ。「私のこと知っていたら返事ちょうだい。」

翌日、メールアカウントにフェースブックから連絡。彼からの返事が入っているという。会社ではフェースブックへのアクセスは禁止されている。いっそのこと、家に帰ってしまおうか。会社がパリ市内ではないことを怨む。ネットカフェに駆け込むこともままならない。と、彼から2度目のメッセージが入ったことを知らせる案内メール。そして3度目のメッセージには彼が自分のメールアドレスを公開してくれる。震える手でメールを送る。
「長いこと捜していたわ。」 
直ぐに返事が彼から直接来る。
「こっちも長いこと捜していたよ。」 
信じ難い。
「どうして私だって分かるの?」 
「オーストラリアで会ったじゃないか。」 
ビンゴ!!! 1年間の北京駐在を経て戻ってきたばかりと言う。国民軍のパイロットは今や国で3番目に大きな基地の総督。何度も死ぬかと思う場面を経験し、今があると言う。  和平が成立したのは去年。何百通と送ったであろう手紙。その度に書いた筈の彼の名前。『i』が抜けていた。『愛』が抜けていた?彼も彼で、私の名前に『h』が抜けていた。『エッチ』が抜けていた?そうして、同姓同名の別人に電話をしたこともあったとか。

縺れた糸、繋がらない糸、それが絡み合う糸に。。。 

昔私が送った小包が軍で問題になり、彼が日本のガールフレンドからだと主張しても、取り合ってもらえずに、最終的に爆破したという。今では笑い話。
「じゃあ、私の100通以上の手紙は届かなかったの?」
返事はない。どんなに大切に思っているか、死ぬほど捜して、漸く奇跡的に見つかった、もう失いたくない、なんて、以前は言わないことをはっきりと言う。どうして前に言ってくれなかったの?「だって、あの頃は幼かったじゃないか。高校生の男なんて、、、」 「違う、違う。あなたの国に会いに行った時のことよ。」 「戦争中だったんだ。将来のない僕に何が言えた。君が帰る日に、空港に見送りに行けなかったよね。君の乗る飛行機のパイロットは知り合いだから、彼に手紙を託したよ。」 「え?手紙?もらっていない。なんて書いてあったの?」
それには返事をせずに彼は続ける。「あの時、ミッションに行くために戦闘機を操縦しなきゃならなかった。その時のコーパイロット、撃たれて死んだよ。」

君は仏教徒だよね。なら、分かるだろう。生まれ変わるなら、どこが良い?
恥ずかしそうに彼の国の名前を告げる。小さい声だったからか、また聞き返される。今度は、アフリカかな、と言う。
一体何を言っているんだ。日本という幸せな国から、何が悲しくて飢餓で苦しみ、紛争が絶え間ないアフリカに生まれ変わりたいなんて言うんだ。俺は65歳で死んで生まれ変わりたい。できることなら、日本に生まれ変わりたいよ。

 一年前に書いたものですが、私の原点にも繋がる彼との再会について記録に残しておくことにしました。これから、この彼についても、触れていくことになると思います。

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全てにはファーストタイム

 学生時代、電車の窓からのぞく青く輝く稲穂に願いをしたものだ。三つ目の願いが叶って、故郷を離れ、気がついたら一人になっていた。あれから20年。

 正確に言えば、通常は3匹のバッタ達との生活。2週に1度の割合で、週末に一人になる。勝ち取った自由な自分だけの時間は尊いが、与えられた自由な時間をもてあまし、それでも早5年の歳月が過ぎようとしている。そろそろ自分の人生として、しっかりと現実を受け止め、自分の時間として大切に過ごそうと思っている。

 人生、すべてにファーストタイムがある。今日は、私のブログ、初めての日。
 
 日々の思いを、気ままに、綴っていけたらと願っている。

時々思うことがある。我が人生、胡蝶の夢か、と。

この写真を撮影した時には思いもよらない効果として、仕上がってみた作品を手にして、我ながら驚いたことがある。水面に映えた空の色が、実際の空より青く、水面の雲の色が、空に浮かぶ雲よりも、さらにくっきりと白さを増しているではないか。

月明かりが、宮沢賢治の世界でなくとも、実に明るく、満月ともなろうなら、窓からの月明かりで、眠りから起こされることも暫し。その月の光は、実は太陽の反射だというから、自然は驚異に満ちている。

いつか、このテーマをもうちょっと深く探りたい。今日は、ゆっくりと水面に映える世界を楽しみたい。


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