2018年9月23日日曜日

15分の休憩








世界で最も遅い特急はすこぶる快適だった。始発駅ではがらがらだった席も、途中の停車駅でどんどん新たな乗客が入ってきて、席は埋まりつつあった。意気揚々と窓際に陣取っていた母だったが、遂にスイスの老齢のカップルに席を明け渡すことになってしまった。当初、紳士の方はどうぞ楽しんでください、と、いかにも紳士らしいサービス精神で席を譲ってくれたが、マダムの方が、わざわざ窓際を予約したのだから、席は譲れない、私は嫌です、と、これまたはっきりと仰った。不思議なことに、確かに彼らの予約席なのだから、マダムの言い分は当然なのだが、その言い様に非難の棘を感じ、あまり良い気持はしなかった。なんと人間とは自己中心なことよ。

それもあったからだろうか、Chur駅で車両連結作業をするので15分停止するので、下車できると聞くや、母と一早く下りてしまった。カメラ小僧の私としては、プラットフォームに停車しているグレッシャー・エキスプレスの車体でも格好良く写そうぐらいにしか思っていなかったが、知らない場所でも平気でどこにでも歩いていってしまう母は、トイレに行きましょうよ、とぐんぐんと歩いていってしまった。トイレなら列車で既にその近代的かつ清潔な施設を利用したばかりだった。列車にもきれいなトイレがあるという私の呼びかけも効果なく、母の背はどんどん小さくなる。プラットフォームの時計を見ると11時20分。急いで母の背中を追う。

人前で決してトイレに立つなどということをしたがらず、パリの道路にでんとある公衆トイレなど、大衆にこれからトイレに入ることを宣言するような、そんなはしたないことはできないと、トイレがあるカフェを求めて歩き回ったこともあった。そういえば、母は大学を選ぶ際、先ずトイレに行って、その清潔さで判断したのではなかったか。まあ、当時は女子トイレなるものさえ備えていない大学もあったのだろう。

クール駅は前日、一度切符売り場に立ち寄っていたので、全く知らない場所でもなかった。プラットフォームの地下がかなり大きく、切符売り場を始め、スーパー、キヨスク、パン屋など充実しているので、そこにトイレもあるだろうと目星をつけていた。ところが、トイレはそこにはなく、地上階に戻って一番端のプラットフォームの脇にあった。11時25分。

トイレはそこそこ混んでいて、こういう時に焦っても始まらないと、後10分はあるのだからと自分に言い聞かせ、落ち着き自分の番を待った。トイレを出ると母が近道をみつけたと、プラット―フォームへの道を嬉しそうに指し示す。ほら、あそこに列車が見えるでしょう、と。

それを見て、血の気がなくなった。プラットフォームに停車しているのは、色こそ赤い車両だが、グレッシャー・エキスプレスではない。特有の天井までの大きな窓がない。取り敢えず、走って近くに行って確認してみるが、やはり我々の電車ではない。そして、グレッシャー・エキスプレスは忽然とその姿を消してしまっていた。

11時32分。15分というのは目安で、連結作業ができたらすぐにも出発してしまったのか。

一日2本しか走らず、予約は困難であることは既に分かっていた。それよりも何よりも、我々のザック、そして私が偉そうにハンガーにかけたジャケットを持って行かれてしまっていた。ありがたいことに、パスポート、財布、携帯は小さな手提げに入れて持っていた。

事実確認をし、打開策を模索せねば。顔面蒼白になりながら、アドレナリンが一気に噴出。前日チケットの半額を支払った切符売り場に駆け込む。並んでいる方々に頭を下げつつ、グレッシャー・エキスプレスが我々をおいて出て行ってしまったようだが、一体今どこにいるのか、と、何とも情けない話を窓口の男性に早口でまくし立てる。

グレッシャー・エキスプレス?それなら、あと一時間後だよ。のんびりと返事が返ってくる。

それではなく、その前のグレッシャー・エキスプレス!15分の休憩だと言われてトイレに行って帰ってみると、もう電車はどこにもいなくなってしまったの。一体何があったのか。

我々は、間抜けなことに、乗り遅れてしまったことが明らかになった。窓口の男性は我々のグレッシャー・エキスプレスの車掌に電話を入れてくれ、事情を説明してくれているようだった。ザックの所在もそうだが、次の電車に二席空いているか確認し、電話を折り返してくれることになった。

待つこと20分。終点のツエルマット駅でザックとジャケットを降ろしてくれ、かつ、次の電車に2席確保できたとの朗報が伝えられた。そうだ。ランチは?既に我々のテーブルにはナイフとフォーク、ナプキン、グラスが用意されていた。クーポンさえあれば問題ないという。とにかく、ここは信じるしかない。

漸く血の気が戻り、窓口の男性に何度もお礼を告げ、母と今度こそ乗り遅れまいとプラットフォームに戻った。






不思議なことに、ほぼ先程の列車と同じ場所が二席空いていた。どうやら8時間の長い列車の旅は、思わぬハプニングがあり、非常に興奮する旅となった。車窓からの眺めも息を呑むものだった。
















それにしても、なんと間抜けなことか。同時に、なんと幸運なことか。新たな列車の車掌も我々の話を知っていたし、ランチサービスのスタッフも、ああ、クールで列車を替えたお客さんね、と事情を知っていた。ツエルマットの駅でも、発券窓口に行くように言われて赴けば、ああ、クールで電車を一つ遅らせたお客さんね、と楽しそうな声が返ってくる。そうそう、ザックは一つしか預かっていないけど、とウィンクしながら、2つ奥から出してきてくれた。非常に心配したジャケットも、ちゃんと届けてあった。スイス鉄道万歳!素晴らしい。


無事にザックを肩に背負うと、ツエルマットに到着した思いに胸が震える。ここから登山鉄道ゴルナグラートに乗って、ホテルまで行くことになっていた。ホテルからのスタッフが見当たらなかったが、ザックを取りに行っている間に、他のお客さんを連れて行ってしまったのだろうか。不安が過り、ホテルに連絡しようと携帯を出したところに、スタッフが登場。登山鉄道が間もなく出発するので急ぐように促される。次は一時間後になりますよ、と。何も考えずに、渡されたチケットを受け取り、グレッシャー・エキスプレスの駅の真向いにある、登山鉄道の駅に駆け込む。どうやら、今日は何かと急ぐ運命にあるらしい。

とにかく、無事にザックを取り戻し、1時間遅れとはいえ、予定通りにツエルマットに到着したことに安堵していた。そして、今度はホテルに向かっての電車に乗り込めたことに、満足していた。その満足は、電車が進むにつれ、大きな興奮に取って代わられた。








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