記憶程あてにならないものはない。
幼い頃は、きょうだい達が自分が覚えていない話を懐かしがってしていることを耳にし、いかにも自分も記憶をしているかのように思い始め、いつしかそれが記憶として定着したものもある。
そして、社会人となり始めた頃は、あらゆることを覚えている自信があった。いや、つい最近までそう思い込んでいた。ゆるぎない自信を持って、自分の記憶に間違いがないと思い込んでいた。
それがどうだろう。
気が付いてみると記憶の欠落がある。ある時代そのものの記憶すべてではなく、一部のみが欠落している。というよりも、一部のみを覚えていると言おうか。
例えば柿の木。
幼い頃に裏山にあった柿の記憶は鮮明だ。幹のじゃらじゃらとした肌触りさえ思い出すことができる。いたずらっ子よろしく、オレンジ色になった実を勝手に頂戴し、噛り付き、ぺっとしたことも覚えている。母ときょうだい達と一緒に収穫したことも、あの時、コリーのビックがいたことも覚えている。一人で齧った時と、母と一緒に収穫して味わった時とでは、どうして甘さが違うのだろう、と思ったことも覚えている。
それからの記憶が欠落している。
小学四年の時に、山側の場所から、道路を挟んで真向いの家に引っ越しをしている。そこの庭にも柿の木がある。引っ越す以前は無花果の木があって、何度か食べた記憶があるが、今はもう無花果はない。となると、引っ越した時に柿の木が植えられたのだろうか。そうに違いない。『桃栗三年柿八年』と言っていたことが思い出される。ちょうど私が東京に進学した年ぐらいから、柿の実がなるようになったのだろう。
だからか。
膝を打つ思いになる。故郷に帰って、我が家の庭の柿の木を見上げ、そこになっている実を見ても、収穫の記憶がなかったのは。
記憶の糸を手繰り寄せるようにすれば、ちゃんと出てくるものなのか。
今度は柿がたわわになる季節に帰郷し、母と一緒に干し柿を作ろうか。

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