2023年7月31日月曜日

誘惑

 





今にも泣きだしそうな空を見上げて、思わずジャンパーのファスナーを首まで引き上げる。こんな時は森に入ってしまって、鬱蒼とした木々に守ってもらうに限る。トンかもそう思ってか、軽快に森の小径を駆けていく。


森の中では、あちこちの繁みに入り込んだり、藪の中で探索したり、リスを追いかけたりと、トンカは自由に走り回る。そして、遅れを取り戻すかのように猛スピードで追いつき、追い抜き、急ブレーキをかけてスピードを減速し、あたかも今まで一緒に歩いていたよね、のポーズで数歩前を歩きだすことが常だった。


その日も、森に入ると一瞬にして姿を消してしまったが、特に気にも留めずに歩き続けていると、暫くして左の奥からトンカが優雅に目の前を走り抜けて行った。いや、トンカではなかった。トンカと同じ栗色の毛色をしているが、体躯は3倍、いや4倍ぐらい大きかったし、何しろ、頭に角がついていた。若い牡鹿ではないか!


あまりの美しさに見惚れてしまう程だった。


トンカが若い牡鹿の魅力に引き込まれ、その後を追いかけて行ってしまうのも、大いに納得がいった。いつもなら、鹿の後ろにトンカの追いかける姿を見るのだが、今回は牡鹿に気を取られたからだろうか、トンカの姿は見えなかった。それでも、あの若い牡鹿と一緒に駆けていくトンカを想像することは容易だった。


トンカの幸せを思った。果たして人間界で狭い空間に閉じ込められ、人間の都合でしか森で遊ぶことができない今の生活は、幸せなのだろうか。どこか野性味を残すトンカの瞳は、いつだって飼いならされることを自戒しているように思われる。それでも、自然界に放ったところで、草の実や木の実を食べて生きていくことが出来るのだろうか。


しばらく茫然と立ち尽くしていると、遠くから枝を踏みしだく音が聞こえ、トンカの姿が現れた。いつものように猛スピードで追いつき、追い抜くと、急ブレーキを掛けて減速し、数歩前を歩きだした。


トンちゃん、戻って来てくれたのね。トンカの斜めにピンと立ち上がった威勢の良い尻尾を見つめながら歩き始めると、万感の思いが込み上げてきて、いささか大袈裟ではないかと思いつつも、あやうく落涙しそうになる。さあ、行こうか!



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