発見は一人の時が多い。
何も考えずに、いや、考え事をしながら歩いていて、気が付くととんとんと歩くテンポで何もかもが上手くテトリスの様に収まってしまったかのように感じられ、頭が空っぽになっている時に、往々にして発見が訪れる。
といっても、そう大袈裟なことではない。
見上げると、そこに何十年と枝葉を広げ、夏には緑の木陰を作り、秋には目にも鮮やかな黄色の葉で道行く人の足を止めるであろう銀杏の木。
この地に引っ越したのは長女バッタが小学校に上がる年。その彼女がこの11月には二十歳になるのだから、早14年の月日が流れている。間違いなく少なくとも13回は秋が訪れ、今、14回目の秋が訪れようとしている。
14回目の秋にして、その枝に鈴なりに銀杏の実がなっていることに気が付く。
発見。
これまで、何度この下を通っただろう。ちょうどベンチも近くにあり、公園からバッタ達と自転車で帰ってくる途中、三輪車で頑張って追いつこうとする末娘バッタを待ったことがあったかもしれない。
発見した内容ではなく、むしろ今頃発見したという事実に驚いてしまう。
これまで、実がなったことはなかったのだろうか。
気になりながらも数週間が過ぎ、ふと通りがかった昨日、思った通り、木の下には黄色い実が転がっていて、誰もとった形跡はない。一つ手に取ると、たっぽたぽに熟した実から、ぴゅーっとジュースが出てくる。
銀杏並木。大学のキャンパスを思い出そうにも、思い出せない。銀杏を拾った記憶さえないので、恐らくそんなことはしなかったのだろう。銀杏を拾うことよりも、もっと別なことに気を取られていたのだろう、あの頃。
独特の香りを放つことから、ご近所さんは誰も拾わないのかもしれない。或いは、学生時代の私のように、もっと別なことに気を取られているのかもしれない。
夢中になって拾った実は片手からこぼれんばかり。
新たな発見は、時として、自分自身の姿勢によってもたらされるものなのかもしれない。
さて、この黄金の粒をバッタ達に味わってもらわねば。
バッタ達に次に会う時まで、美味しく保存しておく方法を考え始める。彼らが一緒に住んでいた時に巡り合わなかった、その不思議さをもどかしく思いつつ、銀杏一粒にさえ、運命を感じる滑稽さに苦笑しつつ。
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