2011年9月19日月曜日

父の誕生日


 このところ雨が降るたびに気温が下がり、刻々と秋の訪れが感じられるが、今日は久々に青空が広がっている。運命とは不思議なもので、既に今日、このテーマを書くことが決まってしまっているかの状況に呆然。いつかは、と思ってはいたが、その日は思った以上に早く、そして今日のこの澄んだ青空を見上げれば、今日でなければ他の日はないような気分にもなってくるから、人間とはおかしなもの。

 9月19日。それはもう、随分前のこと。私が小学4年の秋に、我が家は通りを挟んだ真向かいの新築の新居に引っ越したので、いつも幼少時の思い出は引越し前と引越し後で区切りをつけている。そして、この思い出は、引越し前の古い家。きっと、小学3年生か4年生、そんな頃だったと思う。食卓の壁に掛かっているカレンダーを見て父が嬉しそうな声を出した。「誰だ?このシールを貼ったのは?」9月19日のところにピチッと貼られている「パパの誕生日」、と書かれたシールのことだ。私だよ、と言えばよかったのに、何故か、別なことをしていた私は咄嗟に反応ができなかった。もしかしたら、楽しい展開になりそうだと、ワクワクと期待していたのかもしれない。ところが父は、満面の笑みを浮かべ、妹の名前を呼んだ。妹といっても、一卵性双生児の私たち。生年月日も性別も、身長の高さまで一緒だった。私のほうが、ちょっと先にこの世の空気を肺に吸い込んだことから、長女となり、彼女が私の妹となった。彼女のことを話せば、話は尽きることがある筈もなく、取り敢えずは別の機会に譲らねばなるまい。ここでは、生まれた時から、姉妹兼親友が一緒であったと記すに留めよう。

 さて、父は、誕生日のシールを貼った犯人は妹であると言い放った。妹は頑なに違うと言った。それ以外に何が言えよう?確かに、あのシールは私が貼ったのだから。それでも、父は相好を崩し、妹に違いないと譲らない。今思えば、私は子供らしくない子供だったのだろうか。ただ、あの時、心に何か風が吹いた様には思う。それは紛れもない『遠慮』の風であった。そんな事件がなくとも、父が妹を可愛がっていることは肌で感じていた。妹のことは「○○子、○○子」と呼びかけ、私のことは「○○」と呼び捨て。妹の名も、私の名も構造上同じなので、語幹を崩して最後に「子」をつける呼び名は父が妹につけたものであった。ただ、言明できることは、その事実をもってしても、ちっとも私は不幸でも、悲しくもなかったということ。父は妹を最も可愛がっているとして、父の隣に行くことを遠慮するようになっただけのことである。

 高校に入ると弾けた豆の様にオーストラリアに1年留学して行った私。1年経て帰ってくると、父がすっかりと痩せてしまっていることに先ず驚いた。手紙で胃潰瘍で手術をするけれど、心配するな、と知らせてはあったが、これ程にも辛い病状であったのかと、正直、どう反応してよいのか分からなかった。帰国の時期が丁度兄の大学受験の時期と重なったのであろうか。うろ覚えではあるが、父が療養しているという東京の祖母のところで(母の実家)、オーストラリアから帰ってきたばかりの私と一緒に数日お世話になった。と、ある日、父が映画に行こうと誘ってくれた。生涯初めての父からの映画の誘いであり、それは生涯最後ともなってしまった。こともあろうに、私はその誘いを断ってしまった。その日は兄の共通一次試験の日。そんな大切な日に、まさか映画などに現をぬかしている場合ではないであろう、と。今、思えば、何様のつもりだったのだろうか。映画に行かずに、その代わり何をしたのか、今ではちっとも覚えていない。父は一体、どんな思いで私を誘い、どんな思いで私の断りの言葉を聞いたであろうか。子とは、時として親に対して酷い仕打ちをするものだ。これは、親になって始めて分かったことではあるが、今でも、あの時の誘いを喜んで受けていたら、と辛く思い出す。

 もう一つ。後悔していることがある。いや、懺悔、その言葉の方がぴったりとくる。そうして、何度懺悔しようにも、取り返しのつかない事実に、改めて打ちひしがれる。高校3年の、そう、丁度今日の様な秋のある日。既に兄も、妹も、東京の大学に行ってしまって、私だけが家から高校に通っていた。中学までは徒歩で通えたが、高校は一時間に1本あるかないかの在来線に乗って、それこそ小一時間かけて通っていた。あれはテスト期間であったのだろうか。早々に家に帰ってくると、リビングのロッキングチェアーに父が昼寝をしていた。いや、あれは昼寝ではない。物凄い形相で、胸を掻きむしり、その苦しんでいる格好でロッキングチェアーに身を委ねていた。死?恐ろしい文字が浮かんだ。声もかけられず、兎に角怖くなり、早々と二階の自分の部屋に入り、恐ろしさに震えていた。と、バタンとドアの音がして父が外に出ていったことが分かった。急いで窓に駆け寄り、父の姿を確認した。そうして、このことを怖いもののように、ぴったりと蓋を閉めて記憶の奥底に仕舞ってしまったのである。どうしてあの時、夜、仕事から帰ってきた母に、この話をしなかったのか。どうして、父に、そのことを話さなかったのか。今でも、本当に、どうして自分があの時、母にも話をしなかったことを不思議に思い、自責の念にかられる。あの時、既に病魔が父を襲い、父の身体を蝕んでいたのである。一体、何故、あの時、あの警告を、皆に告げなかったのか。どう考えても、誰にも信じてもらえないかもしれないが、記憶の奥底に隠してしまい、忘れてしまっていたのである。その後、あれほどの大事になるとは思いもせずに。

 私の大学入学とともに、父の病気は再発した。武道館での入学式への出席が、恐らく父が出た最後の公式の場となる。『再発』と聞いて妹は泣き崩れた。高校生であった私には隠していたが、実は父は癌で、胃を全部摘出していたことを、その時に知らされた。そして癌の『再発』は、死を意味すると。大学の夏休みは毎日、虎ノ門にある父の病室に通った。高校時代、何も知らずに看病も何もしなかったことを埋め合わせるかのように。父は最期まで自分の死を思っていなかった。それでも、ある日、父の足元がすうっと冷えだし、朝には、その階の看護婦さんが全員揃って父に挨拶に来た。医師も彼女達も知っていた父の最期。父だけが知らなかった最期。

 それから暫くは、母の前で父の話をすることはタブーであった。母が父のことを話題にすることは出来ても、我々が話をしてはいけない、そんな不文律が出来上がっていた。そうして、数年が過ぎ、母も父のことを心取り乱さずに話せるようになった頃、、母から父の手帳の存在を知らされる。母が言う。「最初は小さなミミズの這ったような字だから、何が書いてあるのか分からなかったのよ。でも、よくよく見たら、『○○ちゃん』って。あなたが病院に来てくれた日だと思うわ。」

 ○○ちゃんとは、私の名前の語幹の最後を崩して、それにチャンをつけた、幼い頃の私の呼び名。。。声をあげて泣いたことは言うまでもない。

 今日、9月19日は父の生まれた日。8月7日が祥月命日だが、9月19日は忘れられない父の誕生日。

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