ペルー紀行
第一話 インカの末裔
第二話 マチュピチュを目指して
第三話 真っ暗闇の車窓
第四話 静かな声の男
第五話 さあ、いざ行かん
第六話 空中の楼閣を天空から俯瞰
第七話 再び、静かな声の男登場
約束の8時にマチュピチュ駅に行ってみると、溢れんばかりの人で先ずは圧倒されてしまう。静かな声の男を探すも見当たらない。嫌な予感がする。窓口には朝にも会っていた日本人の若い夫婦のご主人の方がいて、母と何かを話している。どうやら、アシスタントの男性は未だ来ておらず、窓口では焦らずに待つようにとの一点張りで埒が明かないとのこと。若い夫婦の奥さんの方は列を作っているという。列?言われてみると、大した秩序もない様子ながら、膨らんだ列のようなものが商店街の方まで続いていた。
列の最初と思われる集団に声を掛けてみる。彼らも明日のチケットを持っていて、二日間の運休の話を聞きつけ兎に角並んでいるという。誰かが指示したわけでもなさそうだが、確かにこんなことなら、息子バッタが主張したように、頑としてその場を動かずに待っていた方が賢明だったに違いないと思われた。
と、すっと例のアシスタントの男性が現れる。救世主の登場と言わんばかりにすがりつくが、話を聞いて、これまた真っ青になる。つまり、今夜何時になるのか未定だが、電車は出る。それに乗ってクスコ、いや、オリャンタイタンボ駅まで行ける筈。待つしかない。取り敢えずは列に並ぶように。
若い夫婦の奥さんが待っているところに、一緒に並ぶことにする。これで列の最後尾ではなくなるが、それでも駅前というよりは商店街の中といった位置だった。
若い夫婦は三日後にはクスコから日本に帰る予定らしく、下手をすると帰りの飛行機に間に合わない可能性に頭を悩ませていた。駅の窓口では、電車はいつかは出るのだから、兎に角待つようにと言われたと、げっそりしている。末娘バッタと切符を交換しに窓口に行った時も同じことを言われた。ただ、その時は7時に来るようにとの時間指定があった。そうして7時に来れば、8時に来るようにとのこと。そうして、今がある。
若い男性は、駅の待合室で待つようにって言われたって、この人混みじゃ、と頭を掻いている。その言葉を聞いて、母が言う。それなら、一度駅の中に入ってみたらどうです?男性はびっくりしたように母を見る。
確かに、末娘バッタと窓口で交渉をした時にも、駅の中に待つ場所があるから、そこでとにかく待てと言われたことを思い出す。
男性は、母からの言葉に意を得た様子で、取り敢えず様子を見てきます、と消えて行った。
そこで私も駅に入ってみることにする。人混みをかき分け、駅の入り口と思しきところにたどり着くと、駅員のような黒い制服を着た男性が一人立っていて、駅構内と外の空間を結ぶ役割をしている様だった。結界石のような役割と言えようか。駅というスペースは囲いで仕切られてはいない。所謂、建物の入り口ではなく、公園の入り口のようなもので、小さな黒い鉄の門扉があるようだった。
向こうの世界、つまり駅の中へ入ろうとした時、駅員と思しき男性にチケットを見せるように言われる。言われたとおりに見せたところ、これは明日のチケットなので、入ることはできない、と言われ、すごすごと皆の場所に戻る。そこでは、先に入った男性が奥さんに電話をしてきており、首尾よく上手く入れたとのことで、皆が興奮していた。
皆は私の姿を見、話を聞いて、落胆した。チケットを見せた私がいけなかったのだろう。しかし、見せろと言われたら、見せるしかないだろう。
奥さんはご主人が待っているからと、荷物を持って消えて行った。後には喧騒と我々4人が残った。その様子を一部始終見ていた声の静かな男がふっと消えていなくなり、そうして、また突然現れた。彼から、ちょっとこちらに来てくれないか、と私一人が呼ばれる。慌てて後を追うと、人混みから少し離れた場所で、静かな声を更に落として話し始める。
先程の若い夫婦のように、とにかく駅構内に入らなければならない。明日の切符を見せてはならず、呼び止められたら、トイレに行きたいと言えばいい。あそこにいる人々全員が同じように駅に入ったら収拾がつかなくなるので、このことを、今ここで話している。家族には英語ではなく、日本語で伝えるんだ。電車はいつ出るか分からない。しかし、出る。それに乗るんだ。いつオリャンタイタンボ駅に着くか分からないが、向こうでは仲間が待っている。
無駄なことは一切言わず、にこりともせず、真剣な目つきでそれだけを静かに伝えた。そして、全員で行くのではなく、一人ずつ、時間を置いて行くように、とも付け加えた。
冷汗が出てくる。ここは何とか脱出しなければならない。ただ、上手くいかない可能性もある、ということだ。
静かに皆の元に戻り、日本語で言われた通りに伝えた。その様子を遠くで静かな声の男が見守っている。最初は母が行くことになった。母なら問題ないだろう。毅然とした態度で、問題なく駅に堂々と入って行けそうだ。母の行く手を阻むものは誰もいないだろう。
それでも心配だった。心臓の鼓動が大きくなる。しばらくして、静かな声の男がふっと寄って来た。母は首尾良く中に入ったと言う。そうして、彼が合図をしたら、また一人行くようにと指示が出る。同じように、末娘バッタ、そして息子バッタが闇の中に消えて行った。喧騒と私だけが残る。
静かな声の男が近づいてきた。無事に電車に乗ったら、ここに連絡して欲しい、と紙に電話番号を書き、小さくちぎって手渡した。正直、私は震えていた。「ママ、大丈夫?私が最後になろうか?」と末娘バッタに心配そうに顔を覗きこまれ、「大丈夫よ。さあ、先に行ってちょうだい。皆が待っているわよ。」と母親の威厳を漸く保って言ってはいたが、正直心配だった。
別に悪いことをするわけではないのに、あの静かな声の男の影響なのだろうか。何か秘密めいていて、自分たちの行動を周囲に知られてはなるまいと必死だった。仲間が一人ずついなくなっていることに気づいたのだろうか、後ろで待っている男性から何か聞かれたが分からない振りをして黙っていた。何か変なことを言って、台無しにしたくなかった。
静かな声の男が遠くで合図をした。さあ、行け、と。震える足を落ち着かせ、静かに、ゆっくりと、当たり前のように装いながら、今にも飛び出さんばかりに打ち付ける心臓をなだめながら、歩みを進めた。と、矢張り先程と同じように、駅員に呼び止められる。「乗車券を」と。心臓が飛び出るかと思った。やむかたなしかな。目の前は、駅なのに!「と、トイレに。」と言ったか、言わなかったか。
「ままっ!」
大声が響く。真っ白になりかけていた目の前の風景が一気に色を取り戻し、でっかくなって逞しい末娘バッタの姿が目に入る。
「何しているの、ままっ。早くこっちに!」
おお、娘よ。母を助けに来てくれたか。
娘がおりますので、と慌てて言って、思い切って向こうの世界に足を踏み入れる。もちろん後ろを振り返らなかったが、とくに引き留められる声は聞こえなかった。
がくがく震える足で末娘バッタに手を引かれながら、驚く程の人々で溢れかえっている、予想を遥かに上回る規模の駅構内を歩く。「ママ、何していたのよ。心配したよぉ。皆あっちで並んでいるから」と言われ、そちらを向くと、一番乗りで入り込んだ若い夫婦と母、息子バッタが人混みの中に見えた。
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