その朝は、外に出た時からいつもと様子が違った。いつもなら威勢よく歩き出すのに、珍しく我が家の門の匂いを嗅ぎ、見る度に刈り取らねばと思っている雑草に鼻を押し付けるようにして一つ一つ匂いを嗅ぎ、歩道のあちこちで臭いを嗅ぎ、遅々として歩みが進まなかった。
漸くいつもの運動場の駐車場に差し掛かるところで、遠くに誰か無法者が置きっ放しにしたらしいスーパーのカートを発見し、威嚇の姿勢を取り始めた。「トンちゃん、ただのカートよ。大丈夫だよ。」そんな言葉が耳に入る筈もなく、カンガルー跳びをして近づき、ちょっと吠えた。
匂いに敏感な君なら、あれが生命体ではないことは十分分かることじゃないか。そうは思ってみるものの、ああいった物体を怖がる習性があることは、これまでのトンカの反応からも分かっていた。
それでも、そのカートのお陰で探偵ごっこは一旦終了したのか、いつもの歩調に戻って草原を小走りに進み始めた。と、突然、今度は後ろを振り返り、立ち止まってしまった。見ると、先ほど通って来た道の後方に、白い毛に茶色の斑点模様のフレンチスパニエルの姿が確認できた。老犬なのか、ちょっと足元が覚束ない様子で草むらにゆっくりと入っていくところだった。
トンカはスパニエル爺さんの存在が気になるのか、びくとも動かない。近寄るには距離があるし、スパニエル爺さんがこちらに来るのを待つには、随分と時間がかかることだろう。ここ数日見掛けなかったが、時々出会う、犬を連れてランニングをしている無愛想な男性の犬だろうと思い当たった。
その男性は、すれ違う時に「ボンジュール」と言っても、返事すらしないし、こちらを見ることさえもしない。連れているスパニエルは、トンカが挨拶をしようと近寄っても、さっと避けて通る。いかにも、他の犬と戯れることを禁じられているかのように。そして、ちらりとトンカを見て、申し訳なさそうに、ちょっとよろよろとした感じで男性の後を付いて行く。
男性は、自分が連れている犬が用を足そうが、一切お構いなしに自分のペースを崩さない。車で来ていて、ランニングが終わると、さっとドアを開け、それが何年もの習慣なのだろう、犬も飛び乗り、ぱっと去って行ってしまう。
トンちゃん。待っていてもしょうがないよ。先に行っていようよ。特に会って挨拶をする相手でもないので、トンカに先を促す。意外にトンカは頑固で、じっとスパニエル爺さんを見つめて動かない。が、ここはえいっとリードを引っ張り、トンカを引きずるように前進させた。それでも、何度か後ろを振り返り、スパニエル爺さんが付いてこないか見ていたが、流石に道の曲がり具合で姿が見えなくなると、諦めて、ぱっと頭を切り替え、足早に草むらを歩き始めた。
どちらにしろ、もうすぐ森の手前の広場に差し掛かる。そこで朝は戻ることにしているのだから、スパニエル爺さんとすれ違うことになるだろう、そう思っていた。ふと、無愛想な男性の姿が近くになかったな、と思った。いつもは男性の後を、スパニエルがやっとのことで付いてきている様子だったのだから。
なんとなく気になって、スパニエル爺さんの姿を探しながら今来た道を戻ってみたが、爺さんとは遂にすれ違うことなく、駐車場の脇の道まで来てしまった。いつも男性が停めていた場所に、車はない。というよりも、広い駐車場のどこにも、停めている車は一台もなく、がらんとしている。
一体、スパニエル爺さんはどこに行ってしまったのだろうか。それとも、あれはスパニエル爺さんではなかったのだろうか。だとしても、一緒に散歩をしている人の姿はなかったのではないか。では、迷い犬だったのだろうか。バカンスで飼い主がいなくなってしまったのだろうか。あの犬のSOSをトンカは察知して、じっと見つめていたのだろうか。
見知ったスパニエル爺さんではなかったのかもしれない。それでも、どこかのスパニエル爺さんであって、そして、ひょっとしたら、いつも散歩をしていたあそこの草むらの香りを嗅ぎに、思いが立ち寄ったのかもしれない。そう思うと、それは確信に満ちた思いになり、朝の空に舞い上がった。
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